「現代書林」予想外の高裁判決は殆どベタ記事扱いだが、マスコミに反省を促す大きな問題提起だ
11月18日に東京高裁が「現代書林」裁判でくだした判決は予想外の内容で、新聞などではベタ記事に近い扱いだが、大きな意味を持っている。記者クラブに寄りかかってきた大手マスコミに猛省を促すためにも、ここでその意味について書いておこう。
といっても、「現代書林」事件そのものを知らない人も多いと思うので、『創』2012年1月号に載せたレポートをきょうヤフー雑誌ブログに再掲した。そもそもの経緯はこの記事をご覧いただきたい。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151119-00010000-tsukuru-soci&p=1
2011年、出版社「現代書林」が2002年に出版した本が薬事法違反にあたるとして神奈川県警が捜査に動き、編集者などをいきなり逮捕するという事件が起きた。その時点で問題になった本は刊行から既に10年経っており事実上絶版になっていたのだが、執筆にあたったフリーライターまで逮捕された。どうも神奈川県警は初期の捜査で相当な予断を持ったようで、かなり乱暴なやり方を展開する。その後、この件は裁判の結果、現代書林の無罪が確定している。
裁判では無実が証明されたといえ、出版社側が懸念したのは、逮捕当時、新聞などで「捏造」とか「でっちあげ」と警察の言うなりに同社を誹謗した報道がなされたことだった。同社は神奈川新聞社など報道機関を訴え、虚偽の発表を行ったとして神奈川県警も提訴した。県警への提訴は1審では現代書林が敗訴したのだが、昨日、東京高裁で予想外の逆転判決となった。警察の発表が間違っていたことを裁判所が認めたのだった。
これは極めて異例で、司法の独立性と見識を示したものといえる。警察が事件捜査において予断をもって乱暴な逮捕などを行っても、裁判所がそれを咎めるというケースはあまりなかったし、その警察の意にそって報道を行ったマスコミも、警察がそう発表したのだからやむをえない、ということで免責されてきたのがこれまでの実態だった。
松本サリン事件の河野義行さんのケースのように、真犯人がオウム教団であることが明らかになった明らかな誤報の場合はさすがに警察もマスコミも河野さんを犯人視したことを謝罪するのだが、大半のケースでは、警察もマスコミも責任を問われないことが多い。マスコミは、たとえ間違った報道でも、警察が発表したからそれを報じたといえば、裁判になっても免責されるケースがほとんどだ。
実際、今回の現代書林事件でも、同社が大手新聞を訴えた裁判は、既に判決が出ており、現代書林側が敗訴している。今は新聞も巧妙で、見出しでは「捏造」「でっち上げ」などと警察寄りの報道を行いながら、記事には「警察発表によると」とエクスキューズが書いてあり、たとえ報道内容が事実と違っても免責されるような工夫がなされているのだ。
そもそも、従来、マスコミが事件取材でスクープ競争という場合、それはもっぱら、どうやって警察に食い込み、捜査情報を入手するかという競争だった。夜討ち朝駆けはもちろん、刑事の自宅の床下に潜り込んだといったエピソードが事件記者の武勇伝として語られてきた。その結果、袴田事件などの冤罪事件では、逮捕当時、警察と一体になって袴田さんを極悪人扱いする報道が野放図に行われてきた。
本来、ジャーナリズムは、警察をチェックし、冤罪などが起きないように監視するのが役割のはずなのだが、実際はそうでなく、もっぱら警察情報をどうやって逸早く報じるかの競争になっているのだ。
そもそもこの「現代書林」事件は、言論出版の領域に警察が相当乱暴なやり方で踏み込んで来たケースなのに、そういう観点から警察を批判する報道を行ったのは『創』以外ほとんどなかった。私は取材を続けながら、警察のひどい捜査もさることながら、それを批判しないどころかむしろ警察の側に立って報じる大手マスコミのあり方には、本当に情けない思いを禁じ得なかった。
今回の高裁判決がこのまま確定するかどうかはまだわからない。しかし、警察捜査や記者クラブ体制に対して司法が問題提起をしたものとして、報道機関はぜひきちんと受け止めてほしい。予想外の逆転判決だったために幾つかの新聞・テレビは報じたけれど、他人事のような報道だ(報じないメディアもあるから報道しただけでもましだが)。とにかく警察の言う通りに報道していれば間違いないという大手マスコミの事件報道のあり方についても、これを機にもう一度考えてほしい。
こういうケースをきちんと受け止めることが「マスゴミ」などと揶揄される大手マスコミが信頼回復へ向かうひとつの道だと思う。