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これはビックリ! 失言・暴言を吐いてしまった3人の武将とその後

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田官兵衛。(提供:アフロ)

 連日のように失言・暴言を目にするようになり、その度にネットは大炎上である。中世においても、失言・暴言を吐いてしまった武将がいるが、その後どうなってしまったのか、取り上げて確認することにしよう。

◎高師直(?~1351)

 高師直は足利尊氏の配下にあり、室町幕府の成立に大いに貢献した。尊氏は後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒に応じ、建武政権の成立の立役者となったが、のちに袂を分かった。

 『太平記』によると、師直は「もし、天皇がいなくて困るというならば、木で作るか金属で鋳るかして、生きた天皇はどこかに流せばよい」と暴言を吐いたという。

 観応の擾乱(尊氏・直義兄弟の争い)が勃発すると、尊氏は師直を出家させる条件を直義に持ち掛け、和睦を成立させた。ところが、観応2年(1351)、師直は弟の師泰ともども、摂津国武庫川で直義派の上杉能憲に討たれたのである。

 実のところ、先述した師直の暴言は、妙吉という師直嫌いの僧侶が直義に告げ口したものである。

◎明智光秀(?~1582)

 明智光秀は織田信長の配下として、主に近畿方面の反信長勢力の掃討に力を尽くした。天正10年(1582)3月、光秀は信長に従って東上した。

 その際、光秀は武田氏の滅亡に際して「骨を折った甲斐があった」という発言をした。しかし、光秀は甲斐武田氏の討伐に出陣しておらず、別に貢献したわけではない。

 この言葉を聞いた信長は怒り狂い、「(光秀が)どこで骨を折ったのか」と激怒し、光秀の頭を欄干にこすりつけるなどし、乱暴を働いたという逸話が伝わっている(『祖父物語』)。

 暴行を受けた光秀は信長を深く恨み、天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長を自害に追い込んだが、自身は続く山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗北し、逃亡の途中で土民に討たれたのである。

◎黒田官兵衛(1546~1604)

 黒田官兵衛は羽柴(豊臣)秀吉に従い、中国計略に従事していた。天正10年(1582)6月に本能寺の変が勃発し、信長が横死すると、その一報は備中高松城の攻防に従事していた秀吉のもとにもたらされた。

 うろたえる秀吉を前にして、官兵衛は「御運が開かれる機会が参りましたな」と述べたので、秀吉は官兵衛の智謀を恐れるようになったという(『名将言行録』)。

 慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、政治情勢に大きな変化が生じた。秀吉の死後、官兵衛は子の長政ともども、勢いのある徳川家康に従うようになった。

 その2年後に関ヶ原合戦が勃発すると、官兵衛と長政は東軍の勝利に貢献し、長政は初代の福岡藩主となった。以後、黒田家は繁栄し続け、家は幕末維新まで続いたのである。

◎まとめ

 ここで取り上げた失言・暴言は二次史料に書かれたものであり、すべてが史実とは認めがたい。師直と光秀の場合は、その後の不幸な最期を強調すべく創作された可能性がある。一方、官兵衛の場合は、その智略や先見性を強調すべく、創作されたと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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