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ノーラン新作、異例の「できるところから」公開に。NYとLA抜きでも断行

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
「TENET テネット」の監督クリストファー・ノーラン(写真:Splash/アフロ)

 全世界の劇場主に、待ちに待った朗報が訪れた。クリストファー・ノーランの「TENET テネット」が、準備が整っている国から順次公開されることになったのである。しかも、初日は8月26日と、すぐ目の前だ。アメリカにおけるコロナの勢いが一向に収まらず、2度延期された挙句、先週は8月12日の公開も取りやめになっていたが、少なくとも海外の劇場主にとっては、2週間ほどの遅れで済んだことになる。

 来月26日に公開が予定されるのは、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、韓国など24の市場。翌27日には、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ドイツ、台湾、シンガポール、マレーシアなど19市場、28日にはスペイン、ベトナムなど8つの市場で公開となる。アメリカは、その翌週の9月3日。日本は、当初から決まっていた9月18日のままでいく。

 今作が、アメリカが落ち着くのを待たずに海外から公開されるのではないかという憶測は先週からあったが(ハリウッド映画が、日本で先に公開に?コロナが変えるエンタメ界の常識)、それでも、今回の決定には異例な点がいくつかある。ひとつは、その時点でカリフォルニアとニューヨークという最も重要な市場の映画館が営業していない可能性が高いことをわかっていながら、アメリカの公開日を9月3日に決めたこと。とくにカリフォルニアではビジネス再開を焦りすぎて再び感染拡大を招いたとトップも認めており、そのプレッシャーもあって、今から1ヶ月後に映画館が開いているとは考えにくい。これらの場所をすっ飛ばせば、当然、興行成績に大きな影響が出るが、にもかかわらず、その時に映画館が開いているところで公開してしまおうと決めたのは、潔いといえる。

 もうひとつおもしろいのは、この9月3日の週末が、レイバーデーという祝日の連休に当たることだ。連休というと一見、良いタイミングに思えるが、アメリカでこの祝日は夏の終わりを意味する日で、学校なり仕事なりの日常に向けて気を切り替える日である。みんながこぞって映画館に行く週末ではなく、スタジオは、期待作をここにもってくることはしない。「あなたの作品の公開はここになりました」と言われたら、フィルムメーカーは、普通なら、ややがっかりするだろう。だが、コロナのせいで普通の夏がなかった今年は、人が、遊び疲れた、映画ももうさんざん見たとは感じていない。むしろ、遅まきながらもついに来た夏を満喫しようと、週末であることを利用して、上映されている街まで遠くからやってくるファンもいるかもしれない。

 さらに、通常、ハリウッドにおいて、アメリカとカナダは「北米」というひとつのまとまった市場で計上されるのだが、今回は別々の市場として扱われている。しかし、コロナの状況はそれぞれに違うし、現在もアメリカとカナダの国境の行き来は制限されたままだ。「できるところから」やるとなれば、このふたつを切り離すのは、当然のことと言える。

 この決定について、ツイッターには、すでにさまざまなコメントが寄せられている。アメリカの外に住む人からは「やった!」「絶対に見に行く!」「『ブラック・ウィドウ』も同じやり方にして」という喜びの声がある一方、アメリカに住む人からは「アメリカのコロナ対策がそれだけ酷かったということ」などと、トランプ政権の批判もしている。また、「つまりは全世界8月26日公開ということ。賢くないね」と違法コピーの危険を指摘する声や、「今は世界のどこにいても人の集まる映画館に行くのはどうなのか」と、コロナに対する油断への警告の投稿もある。

 しかし、これが、暗闇の中で停滞していたハリウッドにひとつの出口を与えたのはたしかだ。先週、やはり新たな公開日を決めないまま8月21日の北米公開を取りやめた「ムーラン」も、この動きに従うことは十分考えられる。この後もそういったケースが続けば、すでに観客を迎えられる状態にある映画館は、少し安心だろう。逆に、営業が再開できない状態にある州や市の劇場主や、それらの場所にビジネスが集中しているシネコンチェーンは、ますます不満と不安を募らせると思われる。それらの街に住む映画ファンにとっても同様だ。

 それはもちろんノーランだってわかっている。今回の判断は、あくまで、非常事態における妥協の判断。誰もが、見たい映画を家の近くの映画館で見たい時に見られることが理想であるのは言うまでもない。その理想は、ほんの数ヶ月前まで日常だった。それを取り戻すには、コロナをなんとか収束させるしかない。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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