樋口尚文の千夜千本 第161夜「ばるぼら」(手塚眞監督)
手塚父子のハート・オブ・ダークネス
手塚治虫の原作マンガ『ばるぼら』は、全体が15章あってその三分の二くらいまでは耽美的な作家・美倉とアルコールに溺れるふうてん・ばるぼらの不思議な連帯関係を軸に二人がさまざまな事件に巻き込まれる、けっこう軽快なストーリーなのだが、なぜか十章あたりからばるぼらは急にエロティックさを増して、それまでのシャイな中年男と女と娘の間くらいの微妙な存在の少女という曖昧な関係は、やにわに濃い男女のそれに変質する。
連載マンガは生きものだから、この変容には何かわけがあって作品にアダルトな色香を増量する必要に迫られたのかも(?)しれないが、九話までの小気味よくまとまった話が一転、セクシーさもディレッタンティズムも濃厚になって意外なる面白さが弾け出したのも確かである。そして手塚眞監督による父君のこの異色篇のアダプテーションは、この後半部の風味を尊重しているように見える。
いやむしろ映画版『ばるぼら』は、この濃厚な後半をさらに危うさ妖しさを増したようなムードなのだが、あいかわらず手塚眞作品は映像も音楽も洒脱である(二階堂ふみと稲垣吾郎というキャスティングは原作から思いつくなかでは相当シャレたセンスであり、クリストファー・ドイルの映像と橋本一子のサウンドトラックのスタイリッシュさも特筆もの)。原作ももちろんこのダークさや頽廃的なムードへ傾斜してはいるのだが、やはりそこは治虫マンガに長く求められたポップさを激しく逸脱するというわけにもいかなかったはずなので、眞監督がそこを敵討ちのようにやりおおせているのかもしれない。ご尊父が存命なら、ほほう、ここまでやってくれたわいと溜飲を下げたのではなかろうか。
だが、今回『ばるぼら』を観て、8ミリ時代からまる40年以上手塚映画を観ている伴走者としては、またしても眞監督の「変節」ではなく「不変」ぶりにこそ共振した。「またしても」というのは2年前の「千夜千本」で前作『星くず兄弟の新たな伝説』を評した時に、眞監督作品があいかわらず「サロンの映画」であることを称揚したことを受けてなのだが、このたびの場合は特にそのサロン的風雅さとなぜかセットである暗澹たる重量感のことを指す。
ごく最近、『白痴』をリマスター版で98年以来22年ぶりに再見して驚嘆したのは、その途方もない暗さ、重さであった。しかもそれはペシミスティックな暗さではなく、言わば妙に前向きな暗さなのだ。あの惨憺たる爆撃による焼け野原に時空を超えて出現するポストモダン的なモデルたちを典型として、眞監督作品は80年代ふうの風俗的意匠を頻出させ、その浮遊感が「サロンの映画」としての貌を作ってきたが、これは案外少なからぬ観客に眞作品を見誤らせているかもしれない(大林宣彦作品における韜晦の悪ふざけのように)。
私も98年に『白痴』を観た時はそういう細部が気になった記憶があるのだが、22年を経て再見し、さらに新作『ばるぼら』を観ると、そういう部分を呑みこんでなお深まりゆく暗さ、重たさの「不変」ぶりのほうに唸らされる。こんなサロン的意匠をトレードマークとしながら、それでいて真反対の重量を抱え込んでしまうというアンビバレントな姿勢が、眞作品の観客を選ぶところでもあり、また特異なる作家性であるに違いない。この点において眞監督作品は、ティーンの8ミリ作品から現在のデジタル作品までみごとにブレていない。なぜそうなのかということは判らないが、それこそが手塚作品の強烈な「体質」なのだ。
そう言えば原作マンガの『ばるぼら』は1973年7月から翌74年5月まで「ビッグコミック」に連載されたが、この時期のことはよく覚えている。映画に事寄せて言えば、オイルショックによるパニックのさなかに『日本沈没』が流行り、人心の不安がオカルトブームを生んで『エクソシスト』が大ヒットした頃だ。折しも73年には虫プロも倒産し、模索期に入った手塚が、『ブラック・ジャック』での復調に至るまでの蝶番的な季節に書いたのが『ばるぼら』だ。社会も、手塚自身も、不安に駆られ精神的彷徨を余儀無くされた時期のこの作品が、疫病禍と経済不安のただ中に公開されるというのも、ちょっと運命的なものを感じてしまうところだ。