【河内長野市】滝畑村を高台から見守っていた大梵天王社とは?179段の石段を上がって神社に行きました
河内長野市滝畑地区は、滝畑ダムが1973(昭和48)年着工、1982(昭和57)年に完成したため、その場所にそれまであったかつての集落が水没しました。中世のころには滝畑七ヶ村と呼ばれる七つの村があったそうです。
その七つの村の氏神だったのが大梵天王社(だいぼんてんのうしゃ)です。今回、河内長野市指定有形民俗文化財でもある大梵天王社(別名:天神社)に行ってみました。
さて、滝畑七ヶ村とは何かを調べてみると、清水村・堂村・西之村・東之村・中村・横谷村・滝尻村のことです。
その中でもダムサイト(せき止めているところ)の北側にあって水没を免れた旧滝尻村は、北側の天野山金剛寺の領地で、残り6村は西側和泉国(現:和泉市)にある槙尾山施福寺領地だったとか。
その後、豊臣秀吉の太閤検地で村がひとつにまとまったとか、江戸時代中期以降にここには8つの村があったとか、いろいろな情報が錯綜しているのですが、少なくとも1889(明治22)年の段階で、すでに上記の七ヶ村の名前はなくなり滝畑村になっています。
またこの年、町村制が施行され、近くの日野村と高向村と合併して新たに高向(たこう)村に。その後1954年に高向村が他の5つの自治体と統合して、河内長野市になりました。
さて、話しを大梵天王社(天神社)に戻しましょう。場所は、かつての堂村集落と西之村集落の間あたりの山の上に鎮座し、このように鳥居から急な階段を上る必要があります。説明によると、この山自体がご神体であるのだとか。
ちなみに大梵天王社というのは、現在の宗教法人としての登録名ではありません。天神社として登録されています。
しかし、天神社と言っても、天神こと菅原道真を祀っているのではなく、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)の3柱が祭神です。
また、大梵天王の梵天(ぼんてん)とは、バラモン教の創造神ブラフマーが仏教に取り入れられてそう呼ばれました。
淫欲をはなれ、清浄潔白な神王の意味があるのですが、神社にその名前がついていることは、はて?前述の天神社なのに天神を祀っていないこともそうですが、とても不思議ですね。
もしかしたら天神社は、「天」の神社で、その「天」とは、大梵天王という意味かも知れません。梵天(ブラフマー)も、御祭神の神々も、創造や国造りという共通点がありますね。
そんな滝畑の氏神としての大梵天王社(天神社)、残念ながら創建年は不詳です。ただ南北朝時代の1345年の棟札(むなふだ:建物の建築・修築の記録・記念として取り付ける札)が見つかったことから、南北朝時代以前から鎮座していたことが考えれられます。
入口に説明版があります。本殿の柱や本殿前面の蟇股(かえるまた)の様式が、南北朝時代の物であることが確認されているそうです。
蟇股(かえるまた)とはあまり聞きなれない名前ですが、これは建物の上部の荷重を支えるための、かえるの股のように下方に開いた建築部材とのこと。
ちょっとわかりにくいので参考までに以前拝観した新町庚申堂の蟇股を紹介します。
この辺りは滝畑ダムで集落が水没し、貴重な民家などが山の上に移築されていますが、少なくとも大梵天王社(天神社)についてはそのような記録がどこにもないことから、元々高台にあったのでダムの水没への直接的な影響は無かったようです。
さて、階段を上ってみましょう。ずっと山の上まで続いていますね。いったい何段あるのか、記録や情報がないので数えてみました。
途中から振り返りました。けっこう高いところまで登っています。
そろそろ終わりかなと思ったら、
また長い階段が続きます。山登りのときと同じように騙されながら登っていく感じですね。
それでもようやく上まで来ました。数えたところ179段ありました。ただ中途半端な数字なので、私の数え間違えで実際は180段かもしれません。
広場のようになっています。手前の茶色い建物は、正確にはわかりませんが、直会(なおらい)所ではという情報があります。ちなみに直会とは神さまにお供えしたものを祭典終了後にお下げして参列者の方々で共にいただくこと。
実はこの広場まで下からの車道があるのですが、下の鳥居のところでは立ち入り禁止のロープがつけられており一般の参拝者は利用不可のようです。神職や直会に参加する氏子の人たち専用の道路なのかもしれません。
さて、本殿の近くに来ました。手前の建物は拝殿かと思いましたが、舞台のようになっています。本殿はさらに高いところにある赤い建物。
本殿の柱などは南北朝時代の物を使っていますが、建物そのものは江戸初期の元和年間と伝わっています。
拝殿のところが舞台になっていて、武将の額が奉納されています。てっきり楠木正成か、楠木氏ゆかりの武将だと思い込んでいましたが、扇についている紋がが菊水紋ではないので、別の武将かもしれません。
滝畑には平家落人伝説もあるそうなので、平家ゆかりの武将である可能性もありますね。
舞台の前に拝殿があり、さらに階段の上に本殿があります。拝殿の賽銭箱の両側にある木製灯籠は、江戸から明治にかけて作られたものだそうで、1996(平成8)年に河内長野市指定有形民俗文化財に指定されています。
ということで、本殿の階段下で参拝しました。
参拝のあと改めて本殿を見ます。
本殿の説明板です。天神社本殿として、1976(昭和51)年に河内長野指定文化財に指定。もうひとつ、室町頃の作として伝わる鉄製湯釜も、本殿と同じ日に指定されています。
本殿を別の位置から見ました。本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)という形式で、これは正面の柱間が3つある形式、流造は正面側に向かって屋根の形が流れるように作られたものだそうです。
ちなみに大梵天王社(天神社)には神職が不在です。大阪府神社庁のHP(外部リンク)によれば、神社への問い合わせ先は高向神社になっています。
急な階段を降りる前に、滝畑ダムの方を見ました。現時点でもけっこうな高さのところにあるのに、水没前の集落が健在だったころは、そこに住んでいた人たちが、さらに階段を上って高台にある氏神に参拝していたという事実。
そんなことを考えると、信仰心の強さを感じさせられました。
大梵天王社(天神社)
住所:河内長野市石見川8-2
アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス 滝畑ふるさと文化財の森センター前バス停下車 徒歩6分で鳥居の前