【河内長野市】河内長野石仏の新町庚申堂にあった不思議なものたち。いろんな宗教が融合した庚申信仰も紹介
今日3月8日は、60日に一度の庚申(こうしん、かのえさる)の日。河内長野の石仏(いしほとけ)に、新町庚申堂(しんまちこうしんどう)がありますが、ここは庚申信仰によって作られた礼拝堂です。
この庚申信仰には「一国一字」という原則があります。これは、ひとつの国にひとつの庚申堂しか設置しないということ。ここでいう国とは、昔の日本の行政区分。河内長野は河内国ですから、河内では唯一、ここにのみ庚申堂があるということになります。
庚申堂の場所を確認しましょう。南海三日市町駅と美加の台駅の間、高野街道沿いにあります。新町橋交差点の少し南側にあり、距離的には美加の台駅からの方が少し近いです。
ただこのあたりの高野街道は旧国道371号線にあたるので、交通量がとても多いです。歩いて移動する際には、十分すぎるほど車に注意しましょう。
ここが新町庚申堂の入り口です。入口には神道的な鳥居が立っていますが、それより中には仏教的なものなどが設置されています。神社の象徴である鳥居の中にお寺のものがある?普通に考えると変なことなのですが、まさにこれが庚申信仰である所以(ゆえん)です。
それではこの庚申信仰とは何かですが、ひとことで言えば究極の複合宗教ともいえるもの。だから鳥居の中にお寺のものが配置されているということは、不思議でもなんでもないのです。
庚申信仰のベースは中国の道教ですが、ここに仏教(真言密教)、神道、修験道、さらには民間信仰や呪術的な東洋医学などが絡み合っているのです。
庚申信仰の庚申(かのえさる、こうしん)とは、暦の干支(かんし、えと)のことで、ネズミからイノシシまでの12種類の干支だけでなく、十干(じっかん)と呼ばれる10の要素が混ざったものを指します。
これは60の周期(年、日)になっており、年でいえば生まれた年から一巡すると還暦になります。西宮にある甲子園は1番目の甲子(きのえね)年にできたことで、1番でキリが良いからそのように名付けられたとか。
ちなみ庚申は57番目。最近の庚申年は1980年で、次は2040年だそうです。
さて庚申信仰に話しが戻りますが、これは陰陽五行(いんようごぎょう)という中国古代に成立した思想からきたものです。青面金剛(しょうめんこんごう)と呼ばれる神を本尊としていて、これは中国の道教思想に由来している神とのこと。
平安時代に日本に入ってきましたが、それまであった日本の宗教、仏教や神道、修験道などの影響を受けて独自に進化したとされます。
本尊である青面金剛は、人の体から出ていく悪い虫、三尸(さんし)を押さえる役目を果たすと言われています。
この三尸とは、人間の体内にいると信じられている3種類の虫のこと。60日に一度来る庚申の日の夜に人が寝ると、三尸が体から抜け出し、天にいる天帝に会ってその宿主(人)の罪悪を報告。その報告内容によっては、その人の寿命を縮めてしまうとか。
そこで平安時代以降の庚申信仰を信じる人々(当初は貴族、後に武家)は、庚申の日には眠らないことを決めました。
とはいえ、ひとりで夜明かしをするのはなかなか難しいということで、その日の夜は人々が集まって神々を祀り、囲炉裏を囲んで酒盛りなどをして夜が明けるのを待ったとか。それを庚申待(こうしんまち)といいます。
結果的に庚申の日は、夜明かしのために酒を飲み、詩歌管弦などを楽しむ宴会をすることになり、貴族(公家)や武将たちが徹夜で遊んだそうです。
また、あの織田信長も庚申の日に宴会をしていて、頻繁に席を離れる明智光秀にいら立って、槍を振り回してその行為を戒めたという話が残っています。
やがて江戸時代のころには、一般庶民にも庚申信仰が広まっていきました。
この石仏の新町庚申堂ですが、歴史を見ると1669(寛文)9年に四天王寺の庚申堂から勧請(かんじょう:霊を招く)して建てられたとか。かつて庚申の日には露店が出て、多くの参拝客でにぎわっていたそうです。
この扉の奥に本尊の青面金剛が鎮座しています。この神は前にも書いた通り、道教由来とされますが、そのルーツはインドの神という説を唱える研究者がいます。
その研究者によれば、インドのヴィシュヌ神が転化したもの、あるいはハヤグリーヴァ(馬頭観音)との関連性もあるとか。
そのほか別の説では、猿と申つながりで日本神話に登場する猿田彦尊(サルタヒコノミコト)との結びつきがあるとされています。さらに塞の神(さいのかみ:村の境界線にあって外部からの悪い存在の侵入を防いで守っていた神)と、庚申の神を同一視したという説も。
さて、あらためて新町庚申堂の建物を見ると、屋根の彫刻に気になるものがいくつかありました。画像真ん中にあるのは、「みざる、きかざる、いわざる」の三猿です。
こちらは狛犬(もしくは獅子)でしょうか?
そしてこちらには猿がくくられていますね。
庚申信仰では、三尸(さんし)の虫が嫌いなものとして、猿をあげています。猿を見ると、三尸が慌てて逃げ出すので、このように庚申堂に猿がくくられているそうです。またこのくくられた猿は、災い転化のおまじない、お守りにもなっているそうです。
さて境内を見ると、気になるものがまだまだあります。例えばこちらの地蔵と石碑群。
こちらの地蔵菩薩は、石の劣化具合を見ると相当古いものかもしれません。また赤い涎掛け(よだれかけ)には細かい漢字が書かれていました。お経でしょうか?
その隣にある石碑の右側には、大律師孝深和尚の碑があります。大律師(だいりっし)とは、律令体制の時代の仏教の僧の位のひとつで、最上位の大僧正から数えて7番目の地位のこと。孝深和尚その人については、残念なことにいろいろ調べても資料が出てきませんでした。
真ん中にあるこの石像は、中国の仙人のようにも見えますね。
これは少し見えにくいですが、頑張ってみてみると「百度標道」と読めます。どうやら百度石のようですね。
庚申信仰は、その成立からしていろんな宗教が混ざった不思議なもの。そのためか、新町庚申堂の境内にあるものも、宗教の枠を超えたものが多くあるような気がしました。
庚申の日は60日に1回なので、約2か月ごとに訪れます。今日のあとは、5月7日、7月6日、9月4日、そして11月3日。
この庚申の日にタイミングよく時間があれば、庚申の神様が祀られている新町庚申堂に足を運んでお祈りするのもいい機会かもしれません。
新町庚申堂
住所:大阪府河内長野市石仏1110−1
アクセス:南海美加の台駅から徒歩12分