漂着した島民の多くが命を落とした、宮古島島民遭難事件
1871年11月8日、台湾に漂着した宮古島の島民たちが、原住民に殺されました。
この事件は大きな悲劇として今でも語り継がれており、さらに日本史の大きな転換点ともなったのです。
この記事では漂着した島民の多くが命を落とした宮古島島民遭難事件について紹介していきます。
事件の背景
1609年、薩摩藩は軍船百余隻を率い、琉球を一週間で征服してしまいました。
王、尚寧は薩摩に連れ去られ、二年後に帰国を許されたものの、その時、薩摩による支配の掟が15条も敷かれたのです。
貿易の制限や本土渡航の禁止など、王国は見かけ上は独立を保ちながらも、薩摩の監視下で生きねばなりませんでした。
この二重支配の象徴は首里城でした。右に和風、左に中国風の造りとなり、薩摩の役人には和風、中国の使者には中国風で対応します。
双方の顔を立てるこの妙技が、薩摩の利益と中国の体面の維持にうまく噛み合っていたのです。
文化的には琉球は南島独自の文化を守り続けたものの、薩摩の厳しい支配のもと、先島諸島では人頭税という過酷な負担がのしかかっていました。
事件の発端
1871年10月、宮古島と八重山の船4隻が那覇港を出航しました。
首里王府からの人頭税を納め終え、帰路についたのです。
だが、彼らは思わぬ運命に翻弄されることとなりました。
風が止み、慶良間諸島で足止めを食らっていたものの、再び出航すると、激しい嵐に巻き込まれたのです。
宮古船の一隻は無事帰港したものの、他の船は行方不明や漂流の憂き目に遭い、ついには台湾南東岸の八瑤湾に漂着することとなりました。
台湾の地に足をつけた64名は、そこで現地の人々に出会います。
しかし、言葉も通じず、略奪や不審な行動を受け、不安に駆られながら山中をさまよったのです。
やがて、一行は「西に行けば首をはねられる」と警告され、南方へ向かうよう助言されます。
だが、この助言が彼らの命運を大きく狂わせることとなったのです。
宿泊を許された家で一夜を過ごしたものの、翌朝、集落の人々が突如襲いかかり、宮古の者たちは次々と首をはねられました。
わずかに残された生存者たちは、逃げ延び、命からがら那覇へと戻ることができたとのことです。
その後、1925年、照屋宏が生存者の一人である島袋亀から聞き取った話によれば、当時、現地の蕃産物交換業者凌老生の家に逃げ込んだ者もいました。
だが、酒を要求する現地の人々が押し寄せ、緊迫した状況が続いたとのことです。
島袋亀は凌老生の機転に助けられ、床下に身を潜めて難を逃れたものの、他の者たちは次々と引きずり出され、首を落とされたといいます。
この悲劇は、宮古・八重山の人々にとって、ただの漂流事件ではなく、異国の地で命を奪われた者たちの苦難を象徴する出来事となりました。
参考文献
大浜郁子(2006)「「加害の元凶は牡丹社蕃に非ず」-「牡丹社事件」からみる沖縄と台湾」『20世紀研究』第7巻p.79-102
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