北朝鮮の元兵士、朝鮮戦争の「不都合な真実」語り行方不明に
北朝鮮の平安南道(ピョンアンナムド)孟山(メンサン)出身のキムさん。17歳だった1950年、徴兵されて朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の一兵士として、朝鮮戦争を戦った。1952年に負傷して除隊。その後、ある地方にある銃弾を作る軍需工場に配属され、戦傷者(当時の称号、現在は戦争老兵)として-待遇を受け、平凡な暮らしを送っていた。
北朝鮮で毎年7月27日は「戦勝節」――つまり朝鮮戦争に「勝利した」ことを祝う日だ。この日に合わせて、かつては数年に1回、今では毎年、その労をねぎらうための「老兵大会」が開かれ、特別配給や食事会への招待などが行われる。
キムさんは毎年、「戦争老兵との対面の集い」に参加していた。そして、朝鮮労働党宣伝部の作成した台本を覚え、人々の前に立ちこのように話した。
「祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期、われわれは党と首領のために青春も命もすべて捧げて戦った」
集いから帰ってきたキムさんは、その場に集っていた家族と友人にこんな話を漏らした。
「17歳のころは『党と首領のために』なんて言葉は知らなかった。それよりも『わが故郷の寸土(わずかばかりの土地)を死守しよう』というスローガンを掲げて戦った」
実際、金日成将軍は1950年10月11日、ラジオで「祖国の寸土を血でもって死守しよう」という演説を行っている。その年の9月15日に始まった仁川上陸作戦で、朝鮮人民軍は後退を余儀なくされ、平壌から撤退し、中国との国境に追い詰められつつあった時期に行われた演説だ。
それから2カ月ほど経ったある日の夜。キムさんは家族もろとも忽然と姿を消した。その後、キムさんの息子が勤めていた工場の党委員会を通じて、国家保衛省(秘密警察)の通報資料が配布され、人々はそれを呼んでようやく一家の身に何が起きたのか知ることとなった。
キムさんは、戦争老兵との対面の集いの後、隣人との酒の席でこんな話をしていたのだった。
「今日『党と首領のために青春も命もすべて捧げて戦った』という宣伝部の台本通りに話したが、私が数十年間、対面の集いで話してきたことは事実ではない。宣伝部の台本通りに話しただけだ。2015年の戦勝節の対面の出会いのときには、私が体験もしていない戦闘で戦ったと、あたかも本当であるように話したこともある。『口は曲がっても物は正直に言え』ということわざのとおり、あるがままに話さなければならないのだが、宣伝部の教養内容は誇張されていて偽善だ」
保衛部は、「党と首領のために祖国を守った」という宣伝内容を「誇張」「偽善」とした発言に問題があるとし、「国から良い待遇を受け『首領決死擁護精神』を後の世代に受けつながければならないのに、ぼんやりとした精神と記憶で、反政府的な言動を行った」と判断。キムさんを「整理対象者」として「社会から徹底的に隔離されなければならない」として、管理所(政治犯収容所)送りにすると結論づけたのだった。
(参考記事:若い女性を「ニオイ拷問」で死なせる北朝鮮刑務所の実態)
社会的に尊敬され、国からそれなりの待遇を受けている戦争老兵の一家が管理所送りにされたことに驚く住民に対し、保衛部は「老兵だからといって皆が同じではなく、疑わしい者も多い」「彼が老兵であったにもかかわらず、一般の労働者として働いていたのは、普段の思想に問題があったため」と説明した。
万民が平等であるはずの北朝鮮だが、実際には身分制度が存在し、戦争老兵は3つに分けられる階層のうち、最も上の基本群衆(核心階層)だ。
とは言っても、多くの戦争老兵は生活苦に喘いでいる。保衛部の説明には矛盾があり、露骨な職業差別でもある。
また、家族もろとも追放したことについての「両親が革命家だからといって、子どもも自動的に革命家になるわけではない」との説明は、先祖の社会的活動が、子孫に影響を与える、北朝鮮の身分制度と合致していない。北朝鮮の根幹をなすこの制度だが、それですら恣意的に運用されているということだろう。