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反対していた父の一周忌直後の重賞で、武豊と口取り写真を撮れた男の物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
22年サウジダービー出走時のセキフウと中島智之持ち乗り調教助手

両親の反対を押し切り馬の世界へ

 今週末、札幌競馬場ではエルムS(GⅢ)が行われる。
 昨年、このレースを勝ったのはセキフウ(栗東・武幸四郎厩舎)。
 「武豊さんに勝ってもらうのはこれが4回目でした」
 そう語るのは同馬を担当する持ち乗り調教助手の中島智之。1985年7月11日生まれだから39歳になったばかりだ。

中島智之持ち乗り調教助手(武幸四郎厩舎)
中島智之持ち乗り調教助手(武幸四郎厩舎)


 中島が生まれたのは北海道札幌市。競馬とは無縁の家庭で2人兄弟の末っ子として育てられ、幼少時は野球やバスケットボールに興じた。
 「ただ、小学3年の時にはゲームを通して競馬に興味を持っていました」
 6年生の修学旅行で日高を訪れ、初めて馬に触れた時の衝撃は今でも忘れないと言う。
 「家で動物を飼っていなかったので、馬1頭1頭、性格や個性が違う事を初めて知り、面白いと思いました」
 これを機に、将来は競馬の世界に身を置きたいと思った。しかし……。
 「両親には反対されました」
 高校卒業時、改めて馬の世界に行きたい旨を告げると、そこでもまだ反対された。
 「『まだそんな事を言っているの?!』という感じで叱られました。『職人の世界だからキツいし、止めておけ』とも言われました。でも、自分の人生なのでやらせてほしいと、反対を押し切って家を出ました」
 こうして2004年4月から1年間、札幌競馬場の乗馬センターで馬乗りを教わった後、翌05年3月から浦河の牧場に就職。同年10月からは千葉と茨城に牧場を構える梶村ステーブルに移った。
 「自分がうまく曳けない馬を、場長の梶村一生さんは格好良く凄く綺麗に曳くので、感服したし、尊敬出来ました」
 12年、競馬学校に合格すると、梶村に言われた。
 「これからは未勝利馬や1勝馬を1つでも多く勝たせる仕事が出来るようになりなさい」
 オープン馬は誰がやっても勝てる。それよりもなかなか思うように走らない馬を走らせられるようなホースマンになりなさいという意味だと解釈した。梶村は数年前に50代半ばで他界したが、この教えは今でも中島の胸に刻まれている。

待たされて待たされてトレセン入り

 12年6月、競馬学校を卒業した。しかし、当時はトレセンに入るまで欠員が出るのを待たなくてはならない時代。宇治田原ステーブルと室田ステーブルに籍を置きながら、短期の補充員、いわゆるヘルパーとして様々な厩舎に出向いた。
 「正式に厩舎に配属されたのは17年でした。史上2番目に長く待たされたらしいです」
 苦笑しながらそう言うと、当時を次のように述懐した。
 「随分と待たされたけど、お陰で20近い厩舎で働けて、知り合いも増えました。今、考えると良かったです」
 こうして最初に所属したのは岩元市三厩舎だった。
「厩舎が解散する18年の2月まで在籍しました。岩元先生は厩舎最後の2月28日にも自分で乗ってゲート試験を受けるほど、働く人でした」
 そんな師匠の定年の日に、会話を交わした。
 「『中島君は働き過ぎるくらい真面目だけど、そういう姿勢は必ず報われるから』と言っていただけました。凄く働く先生にそう言ってもらえたと思うと、涙が止まらなくなりました」

岩元市三調教師(左)と。(中島智之持ち乗り調教助手提供)
岩元市三調教師(左)と。(中島智之持ち乗り調教助手提供)

新たなる出合いと別れ

 尊敬出来る調教師との別れは辛かったが「新たに尊敬出来る調教師との出会い」が待っていた。18年3月、開業スタッフとして武幸四郎の下で新たなキャリアを始めた。
 「幸四郎先生はテレビでニコニコしているイメージが強かったけど、実際に話をしてみると常に馬の事を優先に考える素晴らしい先生でした」
 馬について意見を出すと「そう思うならやってみては」と尊重してくれる事もあれば「自分はこう思うからこうして」と言われる時もあると言い、更に続けた。
 「柔軟に馬に合わせて考えてくれるので、勉強になります」

武幸四郎調教師
武幸四郎調教師


 21年に出合ったのがセキフウだった。
 「2歳にしては背中がしっかりしている」と感じた馬は、デビュー3戦目から3連勝で重賞を制すと、3歳となった22年には中東入り。サウジアラビアとドバイでいずれもダービーに挑戦。前者では2着に善戦した。
 「現地では開業前の上原佑紀調教師が付きっきりで面倒を見てくださいました。獣医免許があって馬乗りも上手い人なので、見習うべきところばかりでした」

ドバイでのセキフウ。右が中島持ち乗り調教助手で左が上原佑紀調教師
ドバイでのセキフウ。右が中島持ち乗り調教助手で左が上原佑紀調教師

 帰国後、既に籍を入れていた夫人との挙式をいつにするか考えながら、馬はジャパンダートダービー(JpnⅠ)に出走。10着に敗れたが、公私共に順風満帆と感じていた中島は思った。
 「色々なところへ連れて行ってくれて、オーナーや先生、そしてセキフウのお陰。感謝しかない」
 そして「3カ国のダービーに走ったセキフウを誇りに思い」栗東に戻った翌日の事だった。
 「父が倒れたと連絡がありました」
 話は牧場時代に遡る。なかなか休みを取れず帰郷出来なかった中島が、数年ぶりに実家に帰った時の事だ。父から「仕事はどうだ?」と聞かれた中島が答えた。
 「職人仕事なのでキツいけど、毎日楽しいです」
 父が諭した通り、職人の仕事は楽ではなかった。しかし、それでも楽しいと伝えると、当初、反対をしていた父が、次のように言った。
 「おまえが楽しいなら、それで良い」
 それからはいつも応援してくれるようになった。トレセンに入った後もレースの前後に連絡をくれるようになった。ジャパンダートダービーの前にも応援のメッセージをくれた。
 そんな父が倒れた。
 そして、呆気なく逝ってしまった。

一周忌直後の重賞制覇

 翌23年、セキフウはフェブラリーS(GⅠ)に挑戦。中島自身初めてのJRAのGⅠ出走は11着に敗れたが、海外での経験もあったため、変に緊張する事なく臨めた。
 「16頭しか出られない枠に入れたと考えると、ワクワクする気持ちの方が大きかったです」

23年フェブラリーSでのセキフウと中島持ち乗り調教助手
23年フェブラリーSでのセキフウと中島持ち乗り調教助手

 それから約半年後の札幌開催での事だった。「幸四郎先生に配慮をしていただき半休をもらい」父の一周忌の法事に参列した。その直後のレースが、冒頭に記したエルムSだった。
 「(直前の)マリーンSの後、疲れが出たけど、放牧先の坂東牧場が上手く立て直してくれました。また、最終追い切りでは先生が乗って仕上げてくださいました」
 だからチャンスはあると思っていると、豪快な末脚を繰り出した。
 「豊さんに勝ってもらうのは僕自身4回目でしたけど、コロナもあって口取り写真を撮れたのは今回が初めてでした。最後は父が後押ししてくれたのかな?と思い嬉しかったです」
 それから1年が過ぎた。その間にセキフウは引退し、中島は延期していた結婚式を挙げたが「やる事は変わらない」と言う。
 「未勝利馬や1勝馬を1つでも多く勝てるように丁寧に仕事をするのが、職人としてやるべき事だと考えています」
 結婚式で父の遺影を持った母を見て、その思いは強くなった。

23年エルムS優勝時のセキフウ。左が武幸四郎調教師でセキフウの右が中島持ち乗り調教助手。右端が武豊騎手(写真提供=東京スポーツ/アフロ)
23年エルムS優勝時のセキフウ。左が武幸四郎調教師でセキフウの右が中島持ち乗り調教助手。右端が武豊騎手(写真提供=東京スポーツ/アフロ)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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