歴代王者が明かした「M-1」の意味、優勝にいたるまでの葛藤とは
「ずっとえづいてました」
12月20日、「M-1グランプリ2020」の決勝戦が放送されます。
2001年の第1回1回戦から取材してきましたが、いかに「M-1」というものが芸人さんの人生に大きな影響を与えるものなのか。取材者として痛感してきました。
思い起こせば、第1回大会の空気は他のお笑い賞レースとは全く異質のものでした。今よりもプロダクション間に垣根があった時代でしたし、異なるプロダクションのコンビ同士が全国規模のステージで戦うという場もなかった。
なので、会場は格闘技の他流試合のような空気に満ちていました。互いの看板をかけたつぶしあい。緊張感を越えた、殺伐とした空気が確実にありました。
そんな第1回を制したのは「中川家」でした。15年、新たに「M-1」が再始動するタイミングでYahoo!拙連載でインタビューした際にも当時の空気の異様さを語っていました。
「今振り返っても、やっぱり、第1回は特殊やったと思います。出る側も、作る側も、見る側も、もちろん初めて。最初は『吉本のことやから、優勝賞金1000万って言っても、1000万ウォンでした!!みたいなオチがあるんちゃうの?』なんて言うくらい疑ってもいましたからね。それくらい、斬新というか、規格外でしたよね」(剛)
「出ている芸人にも『これは普通の大会と違う…』という感覚がありました。普段、劇場ではベラベラしゃべってるようなメンバーが、予選会場で顔を合わせたら、全然しゃべらんようになってました」(礼二)
デビュー当時から漫才の巧みさで芸人からも一目置かれていた二人でも、明らかな違和感を覚えるくらいの大会。決勝での緊迫感はさらにすさまじかったといいます。
「『M-1』の決勝以上に緊張の中で漫才をしたことはないです。本番前は話をすることもなく、2人で『…オエーッ』とずっとえづいてました」(礼二)
「最初の大会やったから、スタッフさんも当然慣れてない。午後6時半から本番やったんですけど、出演者は正午集合やったんです。でも、リハーサルと言っても、オープニングの段取りとマイク調整くらい。その後“自由時間”が6時間くらい…。そらね、この時間は地獄でしたよ」(剛)
しかし、優勝翌日から生活は一変しました。今までテレビで見ていた番組に10本、20本と出演が決まっていく。当時、すでに「中川家」は関西では売れっ子としてしっかり活動していましたが、極めて近い関係者に話を聞くと、それでも優勝を機に月収が7倍になったとの話でした。
「何が足りひんのですかね?」
また、第5回、2005年に優勝したのが「ブラックマヨネーズ」でした。今でこそ、押しも押されもせぬ地位を築きましたが、当時の立ち位置は微妙なものでした。
ネタの面白さはピカイチ。これは芸人仲間も認めるところ。ただ、テレビ映えしたり、女性ファンからワーキャー言われるような“華”がない。
悩んだ挙句、吉田敬さんが浮世離れしたゴージャスな毛皮を着て舞台に立ったり、何とかして“色”を出そうと試行錯誤をしていました。
吉本興業の会議室で当時勤めていたデイリースポーツの連載インタビューをしている時、絞り出すような声で「何が足りひんのですかね?」と二人から尋ねられた時の空気を今でも鮮明に覚えています。
いわば、道場でのケンカの強さは群を抜いているがスター性が薄く、前座戦線をなかなか向けだせないプロレスラーのような存在でした。
そのレスラーが総合格闘技のリングにあがり、これでもかと強さを見せつけてスターになる。そんな痛快さと可能性を秘めた大会であることを強く体感した大会でもありました。
そこに「M-1」というシステムが誕生し、ただただ、ケンカの強さを競う場ができました。そうなると、一転、光り輝いたのが「ブラックマヨネーズ」でした。
当時、僕はデイリーの演芸担当記者として、毎年「M-1」の優勝者予想を紙面でしていましたが、最も予想が簡単だったのが05年。それくらい、実力がずば抜けていました。
2019年に吉田さんがエッセイ「黒いマヨネーズ」を出した際、Yahoo!拙連載でインタビューしたですが、その時にも繰り返しシャレのように、でも、しっかりとリアルな思いを込めながらおっしゃってました。
「あの『M-1』でオレが優勝したことをみんなが忘れないように、モノとして残る本の著書紹介欄に『2005年、M-1グランプリで優勝しブレイク』と書いてもらっています」
芸人仲間がそろって「天才」と称する吉田さんにとっても「M-1」は非常に大きなものであり、ずっと“しがんで”いたいものともなっていますが、その思いが次の王者を生むことにもなりました。
08年王者の「NONSTYLE」石田明さん。15年、18年にYahoo!拙連載でインタビューした際には、吉田さんへの思い、「M-1」への思いを独特の言葉遣いで語っていました。
「吉田さんとのご縁をいただいたのは06年でした。05年12月に『ブラックマヨネーズ』さんが『M-1』で優勝して、あらゆる仕事が入るようになった。今まで出ることがなかった番組に出て、今まで以上にツーランク、スリーランク、すごい人たちを相手に戦わないといけない。それで、吉田さんも精神的にしんどくなってた時期やったんです」
「その時期から、頻繁に飲みに行かせてもらうようになったんです。どうやら『自分より精神的にまいっているヤツは誰か』というリサーチの結果、僕にご指名がきたみたいで(笑)。『自分もしんどい。でも、自分よりしんどがってるヤツもおるんや。だから、自分はマシや』という精神状態が欲しかったようでして…」
「というのもね、その頃、僕は相当病んでたんですよね…。賞レースでも結果が出ない。 『M-1』でも準決勝にすら行けない。コンビ仲もギクシャクして、そんな状況だから漫才もウケなくて、またギクシャクする。心療内科にも通って、心がボロボロの時期でした」
「そんな状態で吉田さんと飲みに行くんですけど、吉田さんから『トーク番組中も、ストレスで手がしびれてくるんや…』と話があると、僕が『過呼吸です』と即答するわけです。また『夜寝てると、いきなり呼吸の仕方というか、リズムが分からなくなるんやけど…』と言われると『僕は自分の正常時の呼吸リズムをメトロノームに登録していて、それを聞きながら呼吸しています』。『マンション8階の自分の部屋から、ふと飛び降りてしまおうという衝動にもかられるんやけど…』とくると『ウチはハトのフン被害があるわけでもないですけど、ベランダにハト除けネットを張ってます』と答えたり。『石田に聞いたら、何でもわかるなぁ』と変なところで感心していただいて」
「そもそもは吉田さんが楽になることありきで始まった場でした。でも、ご一緒させてもらううちに、僕の方こそ、急速に気持ちと体が楽になっていったんです。僕は先輩づきあいが得意ではなかったんですけど、吉田さんって、ホンマに面白いんですよ。…そこでふと思ったんです。これだけ面白い吉田さんでも悩むんやと。それやったら、自分なんてもんがしんどくなるなんて当たり前やないかと」
「仕事の面でも、ガラッと変わりました。吉田さんの話は面白い。でも、僕が何か話すと『へー…』で終わるんです。ある日、そこで吉田さんが言ってくれたんです。『お前、それ、オモロイ話のつもりなん?』と。『石田はホンマはもっとオモロイねん。お前は今、笑いをとろうとしてんねん。オレは自分がオモロイと思うことだけをただただ言うてる。まずは、自分はオモロイということに気付かなアカン』と言われました」
「確かに、それまでは(当時の若手の劇場)baseよしもとやったらbaseよしもとのネタ、なんばグランド花月やったらなんばグランド花月のネタ、みたいにそこに合わせたネタの作り方をしてたんです。それって、完全に笑いをとりにいってるんですよね。でも、自分が面白いと思うことを出すとなると、おのずと答えは1つになってくるんです」
「と言いつつも、最初は怖かったですけどね…。言うとやるでは大違いですから。でも、吉田さんがよく言うのは『オレもスベる。でも、スベったままでは終わらへん。最後はオレがウケて終わるようにする』と。その言葉を後押しに、シフトチェンジをしていったら、ありがたいことに、06年から関西の賞レースを総ナメにしていけたんです」
「そこから僕が『M-1』をとれたのも、吉田さんへの思いがあって、というところもあるんです。吉田さんに飲みに連れて行ってもらう時、女の子がいるような場やったら、必ずやってた流れがあるんです。吉田さんが『こいつ、関西では結構人気があって、賞もとってるんやで』と持ち上げてくれるんです。それで僕が『ABCお笑い新人グランプリとか、上方漫才大賞と上方お笑い大賞でも新人賞をもらってます』と言うと、すぐさま吉田さんが『…でも、お前がとってへんのが1つあったんやったっけ…?』と僕に尋ねてくる。『M-1グランプリです』と答えると『あ、そう言えば、オレ、それとってんねん』と最後に全部自分が持っていく。『いつか、この流れをできなくしてやる!!』という思いで『M-1』をとりました(笑)」
「実際『M-1』をとった時、吉田さんからすぐ連絡がきたんです。さすがに『おめでとう』と言ってくれるんかなと思ったら『あの流れ、できなくなったやんけ!!』と…」
面白さに勝ち負けをつける。そんな苛烈な場の最高峰が「M-1グランプリ」です。だからこそ、王者は独特の光を放つ。今年もその光を目に焼き付けたいと思います。