東京電力福島第一原子力発電所の国有化
東京電力福島第一原子力発電所の国有化を主張しようというのではありません。しかし、国民の意思決定として、原子力発電を継続するにせよ、放棄するにせよ、どこかで、選択肢の一つとして検討されねばならないのです。何故か。その背景について考えてみましょう。
事故の究極の原因は民間事業であること
現在の原子力発電をめぐる多様な論議は、東京電力福島第一原子力発電所の事故以来、一気に噴出してきたものですが、それらの底辺に横たわるのは、何故に原子力発電が民間事業として始められたのかという原点の問題であるような気がします。
間違いなくいえることは、原子力事業は、国家戦略に基づく総合的エネルギー政策のなかで、国策として発足し、今日に至るまで、国策として遂行されてきたということです。にもかかわらず、それは、国営事業としてではなく、最初から純民間事業として行われてきたのです。背景には、当時の国家の財政事情などがあったのでしょう。
実は、こうして民間事業として原子力発電が行われてきたことが、事故を契機に指摘されてきた重大な問題の遠因をなしているのです。第一には、技術情報等の民間事業者への偏在と民間事業者任せの安全管理に起因する原子力規制の不備であり、第二には、民間事業者としての資金調達を可能にするための高度な電気事業規制と事業者保護の構造が生み出した事業者の驕りと企業統治の欠陥です。煎じ詰めれば、この二つが、東京電力福島第一原子力発電所の事故原因であるわけです。
冒頭で、乱暴すぎることを承知のうえで、敢えて大きな展望を示せば、民間事業として行ってきたことが事故原因ならば、究極の抜本対策は、事業の国営化であろうということです。
「原子力損害の賠償に関する法律」の立法趣旨
東京電力の賠償責任について、私が一貫して主張し続けてきたことは、「原子力損害の賠償に関する法律」の立法の趣旨にそった適用であったわけですが、その趣旨とは、原子力発電事業を民間事業として成立させるために、最低限の政府責任による後方支援の仕組みを設定することだったのです。そして、その背景とは、民間事業なればこそ、最終的な政府責任を定めない限り、巨大な危険のもとでの資金調達は不可能であり、また損害補償の実効性も確保し得ないということでした。
今回の事故のように、巨大なもの、法律第三条の有名な「異常に巨大な天災地変」に起因するものではないと認定したとしても、とにかく補償範囲が著しく広範囲に及ぶものについては、自明のこととして、東京電力の力だけでは対応できないわけで、法律第十六条に定める政府の支援義務が機能して初めて、賠償等の事故処理が可能になるのです。
私の主張は、政府責任を主とし、東京電力の責任を従とする支援形態ですが、政府が現実にとった方法は、あくまでも東京電力の責任を主とし、政府の責任を従とするものです。その基本政策のもと、法律第十六条に従って「原子力損害賠償支援機構法」が制定されて、現在の支援の枠組みができたのです。
なお、主たる責任が東京電力にあるか政府にあるかは、極めて重要な本質的な論点なのですが、それでも、両者の事実上の連帯責任であるとの基本認識については、政府も了解していることです。
福島の廃炉措置の責任
さて、損害賠償の枠組みが決まり、実務作業になっている現段階では、政府と東京電力の責任論の焦点は、損害賠償から廃炉措置へ移ってきています。
ここで廃炉措置というのは、少なくとも現段階では、東京電力福島第一原子力発電所の廃炉作業だけを意味しています。私が、非常に印象深いこととして記憶しているのは、安倍総理大臣が就任直後の昨年12月に現地を視察されたときに、この廃炉措置についての政府責任に言及されたことでした。安倍総理は、今年の9月にも、再度、現地を視察され、そのときも、事故処理における政府責任に言及されています。
おもしろいことに、安倍総理は、最初の訪問では、政府の「全面」的責任といわれたと記憶していますが、二度目の訪問では、政府が「前面」に出て、という表現に改めています。政府の公式見解は東京電力の責任が主で政府責任が従というものですから、理論的には、政府の全面責任はあり得ないのですが、他方で、政府が前面に出るということは、東京電力が後方へ引くということですから、これは、責任配分における私の主張のように、政府が主で東京電力が従という方向への路線転換とも読めるものです。
もっとも、損害賠償における責任論と、廃炉措置における責任論で、微妙に差異が生じていると考えられます。政府が前面に出るのは、あくまでも、事故の完全収束と廃炉措置だけということではないかと思われるのです。
東京電力の「再生への経営方針」
東京電力は、昨年の11月7日に、「再生への経営方針」を公表しています。そこでは、損害賠償、廃炉措置、電気安定供給、経営改革などの広範な課題について、やり抜く決意を精神的に表明する一方で、他方では、政府による追加支援の新しい枠組み抜きでは達成不能であるとの現実的な状況判断も表明しており、事実上、政府に対する支援要請となっています。ここで、大きな負担として想定されているものが、廃炉措置であることは、間違いないでしょう。
ところが、その後、汚染水漏れが大問題として浮上してきます。これは、廃炉措置以前に、事故の完全収束すら終了していないことを露呈するものです。原因として報道されているものから明らかなように、汚染水漏れは、事故というよりも、ただ単に、地震直後から続く様々な応急処置について、永続性のある施設の建設による抜本的な対策への移行が遅れていることに起因するものです。
このことについて、東京電力の怠慢を批判することは容易ですが、さて、それは、東京電力が置かれた物理的制約、即ち、要員確保と資金確保の両面についての制約のなかで、起こるべくして起こったことではないでしょうか。事実、昨年の11月の「再生への経営方針」のなかで、既に、そうした経営の危機的状況について、深刻な懸念が表明されていたはずです。
さらにいえば、安倍総理大臣自身が、政府が前面に出ていかなければならない状況について十分な認識があったからこそ、一連の政府責任の表明がなされたのではないでしょうか。
前面に出る政府と福島の国有化
今日まで、事故の完全収束と廃炉措置については、あくまでも東京電力の単独責任となってきました。これは、法律の仕組み上、政府責任が賠償履行の支援に置かれているのですから、当然のことです。しかし、賠償履行以外の政府支援については、最初から、法律の規定などないわけで、要は、政治決定でどうともなることです。
実際、汚染水漏れ対策には、国費の投入が決定されます。ここで、安倍総理大臣が、汚染水漏れ対策について、政府の直接関与への道を開いたことは、事故の完全収束、そして長期間にわたる廃炉措置に至るまで、政府が前面に出て、即ち、東京電力に任せることなく、政府責任のもとで遂行していくことの事実上の意思表明とみられます。
そして、政府責任を最も明確にする方法が、東京電力福島第一原子力発電所の完全国有化なのです。完全国有化を行えば、責任が明確になるだけでなくて、事故収束と廃炉措置の複雑な作業工程全体を直接に国家の管理下に置くことで、著しく効率が上昇するだけでなく、作業の安全性管理も万全なものとできます。
加えて、福島第一原子力発電所の国有化後の東京電力は、損害賠償、および本業の電気事業に専念できることとなり、日本経済にとって決定的に重要な首都圏の電気安定供給体制は強化されることにもなります。また、電気事業改革が進むなかで強く求められてもいる経営の刷新と効率化にも取り組みやすくなります。
ここで、直ちに、東京電力を甘やかす必要はないという批判が予想されますが、そのような批判からは、何も現実的な対策は生まれてきません。緊急に求められているのは、原子力の危険を完全に制御することです。
現実の課題は、事故の完全な収束と安全な廃炉であり、原子力損害賠償の履行であり、電気の安定供給体制の確保です。その全てを東京電力に任せておくことは、物理的にも、責任管理体制の面からも、不可能なのです。ならば、政府と東京電力との間で、合理的な責任配分を行うしかありません。
私は、実は、国有化は、安倍政権の視野に、少なくとも一つの選択肢としては、入っているのだろうと考えています。問題の焦点は、国民の理解が得られるかどうかということです。しかし、汚染水問題以来、東京電力には任せてはおけないという方向へ、国民感情は向かっているのではないでしょうか。
また、福島第一原子力発電所の国有化は、東京電力の資金調達能力にも重要な影響を与えます。実は、東京電力にとって、電気事業の維持と再構築は絶対に必要なことであり、そのためには、巨額な資金の調達が必要なのです。
政府からの資金面での支援というのは、将来的に全額を弁済することになっており、その弁済原資は、電気事業からしか生まれないのです。つまり、東京電力が自己の責任において原子力損害賠償を完全に履行することは、電気事業において適正な収益をあげることが前提になっているのです。はっきりいいまして、収益をあげることが東京電力の責任なのです。
その電気事業の継続と発展のためには、巨額な資金調達残高の維持ばかりでなく、電源構成の再構築等に向けた新規設備投資を実行するためには、新規の資金調達も必要なのです。しかし、現在の東京電力のおかれた状況では、事実上、資金調達は不可能です。昨年の11月の「再生への経営方針」も、現状を打破して自力による資金調達を可能にするために、政府への新しい支援の枠組みを要請するものであったのです。
そして、福島第一原子力発電所を切り離すこと、これこそが東京電力の資金調達への道を開くための決定的な施策なのです。
福島以外の原子力発電所のあり方
実のところ、程度の差こそあれ、資金調達が難しくなっている事情は、原子力発電所をもつ東京電力以外の8電力会社についても、同じです。では、国有化は、国内全ての原子力発電所にも拡大していくのか。これは、極めて難しい問題であって、日本の原子力政策の将来像が確定しない限り、決め得ないことです。ここでは、二つのことだけを指摘しておきましょう。
第一に、東京電力の再生においては、柏崎刈羽原子力発電所の再稼働が前提になっていることです。一方で、福島第一の分離が必要ではあっても、他方では、柏崎刈羽の稼働と継続保有も必要なのです。
これは、他の電力会社も同じ事情で、要は、廃炉決定を受けた原子力発電所は保有できず、逆に稼働している原子力発電所は保有しなければならないのです。国民感情としては、事業者の身勝手にしかみえない議論ですが、電気事業の経済性からは、そうならざるを得ません。
第二に、原子力技術者の確保と技術の継承発展の問題です。現実問題として、9電力会社と、それら9社の合弁企業である日本原子力発電、この10社に分属する形で、原子力技術者の数と質を維持していけるものかどうか。特に、原子力事業の縮小ないし廃止という方向にでもなれば、この問題は一段と深刻になっていくでしょう。
廃炉は、必須のものであるにもかかわらず、不採算(採算以前の問題であって、単なる巨額な費用の塊です)の極みの事業であり、しかも、長く難しく危険な工程です。理論的に、二つの道しかありません。
第一に、民間事業として廃炉を行うならば、現在の前提のように、原子力事業の継続発展のなかで費用を事前に積み立てて計画的に行うか、原子力事業の縮小(最終的な廃止も含めて)の方向をとるときは、非常に長い時間をかけて計画廃炉を行いつつ、その巨額な費用を電気料金に上乗せしていくほかないということです。
第二に、明確に原子力事業の廃止を決定し、短い時間のなかで廃炉を行うならば、国営事業にして、国民負担で行うほかありません。