死者10人以上の鉄道事故の発生傾向から見る 4月、5月は魔の月か
日本の鉄道は1872(明治5)年6月12日(旧暦の5月7日)に品川-横浜(現在の桜木町)間で仮営業を開始して以来、149年の歴史を積み重ねようとしている。1世紀半ほどの間には残念ながら鉄道事故も多数発生した。なかでも、戦災を除いて10人以上の死者が発生した鉄道事故(以下巨大鉄道事故という。※筆者の定義)はこれまでに64件起きている。死亡者は合わせて2689人、負傷者は7469人で、死傷者は合わせて1万0158人だ。
これらのうち、公共企業体の日本国有鉄道(国鉄)が発足した1949(昭和24)年以降の発生状況を表1に示した。同年は、戦後の混乱期が落ち着きを見せ、鉄道の近代化が図られるようになった時期だ。いわば鉄道が現代の姿となってからの発生状況である。
近年の巨大鉄道事故は4月、5月に目立つ
さて、筆者は巨大鉄道事故は4月または5月に集中しているとの印象を抱いている。直近の2件、JR西日本福知山線での列車脱線事故が2005(平成17)年4月25日に、信楽(しがらき)高原鐵道信楽線での列車衝突事故が1991(平成3)年5月14日にそれぞれ起きているからだ。表1で挙げた巨大事故の発生状況を月別に見たのがグラフ1である。
発生件数が最も多いのは10月の3件で、4月と5月とはそれぞれ2件ずつであった。ところが死傷者数を見ると、4月と5月との多さが目立つ。死傷者数3721人(うち死者数は801人)のうち、4月は867人(同213人)、5月は1126人(同202人)で合わせると1993人(同415人)にのぼり、死傷者数全体の53.6%(死者数全体では51.8%)を占める。
ちなみに1948年以前の発生状況は、1949年以降とはほぼ正反対の傾向が見られた。次のグラフ2が示すとおり、発生件数は5月が1件と最も少なく、4月も2件にとどまる。
イベント開催で臨時列車が多数増発されていた信楽高原鐵道
1949年以降、4月と5月とに発生した4件の巨大鉄道事故のうち、発生した月との関連がうかがえるものは信楽高原鐵道信楽線での列車衝突事故だ。1991(平成3)年、JR西日本草津線の貴生川(きぶかわ)駅(滋賀県甲賀市)と信楽焼で知られる信楽駅(同)との間の14.7kmを結ぶ信楽線の沿線では、「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が4月20日から5月26日までの予定で開催され、事故当日の5月14日も多数の観客でにぎわっていた。観客輸送のために信楽線には多数の臨時列車が増発されていて、事故を引き起こす要因となったのである。
信楽駅を出発しようとした貴生川駅行きの旅客列車は、信楽駅の出発信号機が停止信号を示していたにもかかわらず、定刻より11分遅れとなっていたことに焦り、手動扱いで出発を強行してしまう。驚くべきことに、その際に電話や無線などで貴生川駅から信楽駅に向かう旅客列車を止める手配を取らずにである。
貴生川駅行きの旅客列車が信楽駅を出発したその6分前、対向列車となる信楽駅行きの旅客列車はすでに貴生川駅を後にしていた。それでも途中で行き違いが可能な小野谷(おのだに)信号場に到着していなかったので、ここで停止させられれば事故は起きていなかったはずだ。しかし、信号配線のミスで小野谷信号場の出口に設置された出発信号機は進行信号を示してしまい、信楽駅行きの旅客列車はそのまま通過してしまう。信楽駅行きの旅客列車も貴生川駅を定刻から3分遅れで出発していて、遅れを取り戻そうと普段より速度を出していた。このため、前方から接近する旅客列車に気づいても急には止まれず、被害を大きくしてしまう。
午前10時35分頃に起きた事故を受け、世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91はこの日限りで打ち切られる。また、事故から復旧した後、信楽高原鐵道は小野谷信号場での行き違いを二度と行うことはなかった。
福知山線での列車脱線事故も「列車の遅れ」が影響
信楽高原鐵道での列車衝突事故では列車の遅れが大きな要素を占めたことがおわかりであろう。実は1949年以降に4月と5月とに起きた4件の巨大鉄道事故ではすべて列車が遅れていて、事故の発生に何らかの影響を及ぼした。なかでも列車の遅延が直接の事故原因とされたのは2005(平成17)年4月25日に起きたJR西日本福知山線での列車脱線事故だ。
事故は、塚口駅(兵庫県尼崎市)を通過して尼崎駅(同)へと向かっていた7両編成の旅客列車が半径304mの右カーブを曲がりきれず、1両目から5両目までの5両が脱線して発生した。右カーブの制限速度は時速70kmであったが、旅客列車の運転士はブレーキをかけるのが遅れ、時速約116kmで進入してしまったのである。
始発となる宝塚駅を、先行する特急列車の遅れに影響されて15秒遅れで出発した旅客列車は、次の停車駅の中山寺駅で駆け込み乗車があり、遅れは25秒に増えてしまう。次の川西池田駅では乗り込む旅客が多く、また駆け込み乗車もあって35秒遅れとなる。
航空・鉄道事故調査委員会(現在の運輸安全委員会)の「鉄道事故調査報告書」によると、川西池田駅では通常20秒停車するところ36秒停車していたという。駆け込み乗車で10秒失ったとして正味の停車時間は26秒である。これは通勤電車としては結構長い。何しろJR東日本の山手線の電車が東京駅に停車している時間も、筆者の計測では20秒から30秒程度であるからだ。「鉄道事故調査報告書」には事故当日に川西池田駅での乗り降りに時間を要した理由は記されていない。事故当日は25日と下旬とはいえ4月で、新年度が始まって間もないために不慣れな乗客が多かったのではないかと筆者は推測する。
運転士はわずか35秒とはいえ、旅客列車が遅れていることに明らかに動揺し、続いて停車した伊丹駅で所定の停止位置を行き過ぎて戻ったため、遅れは1分20秒に達していた。駅でのオーバーランは当時のJR西日本が実施していた懲罰的な研修の対象となり、恐らく運転士は列車の遅れを取り戻して罪を軽くするため、最高速度の時速120kmで列車を走らせる。普段利用していた乗客によると、「恐ろしいほどのスピードで走っていた」のだという。
「鉄道事故調査報告書」には、運転士は乗客に恐い思いをさせて旅客列車を走らせたと同時に、車掌と地上にいる指令員との無線交信に耳を傾けて自身に都合の悪いことを車掌が報告しないように気を取られていたのではないかとの記述が見られる。オーバーランや列車の遅延に対する上司への言い訳を考えていたのではないかとも付け加えられた。運転士が死亡したので真相は不明ながら、本来は時速にして50km分落とさなくてはならないところ、わずか4km分しか下げられずに巨大な鉄道事故を引き起こしてしまう。
それでも、カーブの手前で列車が制限速度を超えていたら自動的にブレーキを作動させる装置が付いていれば事故を防ぐことができたはずだ。当時の民鉄、特に大手民鉄では停止信号に列車が接近すると自動的に停止させるATS(自動列車停止装置)に速度超過をチェックする機能を付けるようにと指導(通達鉄運第11号、「自動列車停止装置の設置について」、運輸省、1967年1月)されていて、事故現場に似た場所ではおおむね装備されていたという。
ところが、JRのATSには速度超過対策までは求められず、各社の努力に任されていた。いまでこそ国土交通省はJRを監督する立場にあるが、JRの前身の国鉄は国と並び立つ組織であったので自主性が強く、2005年になっても国土交通省はJRに遠慮していたのだ。とにかく、大手民鉄にはすでに設置されていた装置をJR西日本は福知山線にはまだ設置していなかったために、取り返しのつかない事態を招く。乗客106人、運転士1人の107人が亡くなったこの事故は、いまのところ国内で21世紀に起きた鉄道事故としては最も死者が多く、また先進国に限って言えばやはりいまのところ21世紀最大の鉄道事故である。
車両が焼け落ちた桜木町事故
1951(昭和26)年4月24日に東海道本線桜木町駅(現在のJR東日本根岸線桜木町駅=神奈川県横浜市)で起きた旅客列車の火災事故、通称桜木町事故は、横浜駅を10分遅れで出発した5両編成の電車が終着の桜木町駅に差しかかった際に発生した。火災の原因は、旅客列車が走る隣の線路で行われていた電気工事のミスで架線が垂れ下がっていたからで、旅客列車の遅延との関連はわかっていない。架線は旅客列車の先頭車両のパンタグラフにからまり、たちまちショートして激しい火花とともに屋根に燃え移る。先頭車両はまたたくまにすべて焼け落ち、燃え移った火によって2両目の車両も半焼した。
桜木町事故と発生月との関連性も不明だ。事故の原因となった電気工事が不慣れな作業員、つまり4月に入社した新入社員のミスであれば関連は高いと思われるが、今日残された資料にはそこまでは記されていない。
国鉄の施設局電化設備課の国松賢四郎氏が記した「桜木町事故その後 電力関係の事故防止対策について」(「交通技術」1951年8月号、交通協力舎、11ページ)によると、「(前略)戦争によって失われた技術者の未熟な補充者の技術も非常に向上したとは言え、未だ全部の設備、全部の人達が昔の水準に達したとは言いがたいことは認めねばならない。然も都市附近では其の数すらが定員をみたす事が出来ないのが現状である」と悲痛な叫びを上げる。仮定ながら、1950(昭和25)年度限り、つまり事故前月の1951年3月限りで優秀な電気技術者が国鉄を辞めて転職していたとしたら、桜木町事故が4月に起きた有力な理由として挙げられる。
桜木町事故が死者数106人と巨大な鉄道事故となったのは、戦後すぐに製造された粗悪な材質の電車であったために絶縁が不十分であったからだ。そのうえ、電車の窓が小さく、妻面の扉は内開きと、乗客が瞬時に外に脱出しづらいつくりであった点も被害を大きくしてしまった。
事故後、鉄道車両の防火対策が進められ、いまでは少なくとも難燃性、できれば不燃性の素材を用いることと決められている。ただし屋根は依然として不燃性の素材ではない。2017(平成29)年9月10日に小田急電鉄小田原線参宮橋駅(東京都渋谷区)と代々木八幡駅(同)との間の線路際で建物火災が発生し、緊急停止した電車の屋根に延焼するというトラブルが起きた。激しい炎は車体側面にも届いたというが、燃えたのは屋根だけであった。車体の大部分は不燃性の素材でつくられていても、屋根上の絶縁用の塗料は難燃性であるため、高温の炎に長時間晒されば燃えてしまうのだ。
列車の遅れ、異常な取り扱い、車両や設備の不備が重なって起きた三河島事故
今日ではJR東日本に引き継がれた国鉄常磐線の三河島駅構内(東京都荒川区)で1962(昭和37)年5月3日に起きた列車衝突事故は、三河島事故という通称で知られる。三河島事故はいままで述べた3件の巨大鉄道事故で挙げた要素がすべて含まれる事故だ。5月という発生月との関連性があるかどうかを除いては。
事故は田端駅(東京都北区)から三河島駅を通過しようとした水戸駅行きの貨物列車の脱線から始まった。蒸気機関車1両が44両の貨車を牽引する貨物列車に対し、駅構内入口に設置された場内信号機は、次の信号が停止を示すので列車の速度を時速45km以内に落とすよう指図する注意信号を示す。この時点で貨物列車の速度は時速35km程度と規定どおりであったが、続く駅構内出口に設置された出発信号機の停止信号を無視してそのまま走り続けてしまう。
貨物列車が走っていた線路は、出発信号機の先で日暮里駅方面からの常磐線の下り線と合流する。したがって、停止信号が示されている以上、貨物列車は絶対に止まらなくてはならない。その日は下り線を上野駅発取手駅行きの旅客列車が三河島駅を出発していて、貨物列車の右隣の線路を並ぶように走っていたから、貨物列車がそのまま合流地点に達すると衝突してしまう。
国鉄は、貨物列車が走行していた線路が下り線と合流する直前の地点に安全側線を設置していた。安全側線とは、もしも列車が停止信号を見落としても下り線に進入しないよう、強制的に列車を分岐させ、レールの下に敷き詰めた砂利や砕石から成るバラストに車両を乗り上げさせて停止させる施設を指す。貨物列車は安全側線に進入したものの、時速30kmほどとスピードが速すぎたことからバラストを行き過ぎてしまい、先頭の蒸気機関車と続く貨車1両とが下り線へと張り出した。この結果、取手駅行きとなる6両編成の旅客列車に衝突し、1両目と2両目とが脱線してさらに右側の線路となる日暮里駅方面の上り線へと押し出されてしまう。
ここまでであれば死者数は0人、負傷者25人の事故で終わっていた。事故を大きくしたのはその後の取り扱いミスだ。貨物列車の乗務員や取手駅行きの列車の乗務員、三河島駅の駅員のだれもが、下り線の反対側の上り線にやって来ると予測される列車を止める措置を取らなかった。事故状況の確認や把握、それから乗客の避難誘導に追われていたうえ、乗務員と駅員がお互い停止措置を取ってくれるであろうと譲り合ってしまったからだ。
最初に起きた列車衝突事故から約6分後、取手駅発上野駅行きの旅客列車が時速約80kmで事故現場に進入する。電車9両を連結した上野駅行きの旅客列車は線路上を避難していた取手駅行きの乗客を次々にはね、そして取手行きの電車に激突した。上野駅行きの旅客列車の先頭車は大破し、2両目から4両目までの3両は脱線したうえ、2両目、3両目の電車は築堤の下に転落してしまう。この結果、乗客159人、上野駅行きの旅客列車の運転士1人の合わせて160人が亡くなり、296人が負傷した。
事故の直接の原因は貨物列車が三河島駅構内の出発信号機を無視したからである。それではなぜ信号を守らなかったのか。貨物列車の機関士は進行信号と誤認したからと主張した。
誤認の理由までは突き止められなかったが、この事故で関係する3本の列車のなかで貨物列車だけが定刻どおりに運転されていたことに注目したい。取手駅行きは4分、上野駅行きは2分と旅客列車がともに遅れていたのは、この日の深夜1時05分に東北本線の古河駅構内で貨物列車が旅客列車に追突する事故が起きて不通(5月4日に復旧)となっており、その影響が上野駅を通じて常磐線にも波及していたからだ。貨物列車の機関士は定刻通りに列車を走らせたいと考え、他の列車が遅れていることなど眼中になく、出発信号機に示されている停止信号もすぐに他の信号に変わると予想したのかもしれない。
線路や車両、施設の欠陥であるとか、ミスをバックアップするための保安装置の不備の度合いは、いまでは考えられないほどひどかった。事故を防ぐための安全側線は逆に被害を大きくしている。取手駅行きの旅客列車の先頭車両のヘッドライトに装着されていた電球は150Wで、光は暗くてわずか70m先までにしか届かず、上野駅行きの旅客列車の運転士は衝突直前まで気づかなかったと言われる。そして、取手駅行きの旅客列車最後部の乗務員室には車内放送装置がなく、乗客への案内や避難誘導ができなかった。また、関係する乗務員、駅員が2番目の事故を防げなかったのは問題だとしても、最初の事故後即座に周囲の列車を自動的に止める仕組みがあれば、被害は少なくて済んだはずである。
何よりも不幸であったのは、当時の国鉄にはATSが導入されていなかったという点だ。貨物列車の機関士がどのような状態であろうと、ATSさえあれば停止信号の直前で停止し、事故はまず起きなかったと推測されるからである。
三河島事故を受けての国鉄の動きは早く、ATSが国鉄全線に整備されることとなった。車両のヘッドライトの電球は250Wに上げ、電球よりも光が遠くまで届く照明装置の開発にも着手された。車内放送装置は旅客列車の車掌が乗務する車両すべてに取り付けられている。
事故が起きた際に周囲の列車を止める仕組みも整えられた。また、のちに列車同士または列車と地上とで交信可能な列車無線装置や、列車に緊急事態が発生したときに1~1.5km以内の列車に対して緊急停止を促す列車防護無線装置の採用も進められた。
巨大鉄道事故を教訓にリスクを徹底的に潰す
事故対策は国鉄のほかに民鉄にも波及し、三河島事故以前と以後とでは鉄道事故の件数が大きく変化している。1949年以降に起きた14件の巨大鉄道事故のうち、三河島事故までの13年間に起きたものは8件、以降の59年間では先に紹介した2件を含めて6件起きたにとどまっているのも、対策を施すとともに事故の可能性を徹底的に潰してきたからだ。巨大鉄道事故は2005年を最後に今日まで16年間が経過した。今後もこの記録を更新してほしいと願うとともに、鉄道事故で犠牲となった方々のご冥福を祈りたい。
参考文献
『重大運転事故記録・資料(復刻版) 追補(第二版)』、日本鉄道運転協会、2013年12月
『鉄道事故調査報告書 西日本旅客鉄道株式会社福知山線塚口駅~尼崎駅間列車脱線事故』、航空・鉄道事故調査委員会、2007年6月
『桜木町駅における国鉄電車火災事故調査報告書』、運輸省鉄道監督局、1951年6月
『鉄道電気技術者のための信号概論 ATS・ATC』、日本鉄道電気技術協会、2001年7月