厚生年金基金の投資の逸脱を止める義務
厚生年金基金の資産運用責任をめぐる面白い裁判の判決があります。
九州石油業厚生年金基金は、不動産関連の特定の投資戦略に集中的に運用していたことから、その戦略の投資の失敗により、巨額な損失を受けました。ついては、基金は、この戦略を信託口座で受託していた信託銀行に対して、注意義務違反に基づいて、損害賠償請求の訴訟を起こしたのですが、一審では敗訴になったという事案です。
大切なものが忘れられている訴訟
この訴訟、現在、控訴審で争われているのですから、最終的な裁判所の判断がどうなるかわかりませんが、結論がどうなるにしても、全体的な印象として、私は、何か一番大切なものが忘れられているのではないか、真の当事者であるべきものの不在のなかでの紛争なのではないか、そのように感じています。
一番大切なものというのは、年金受給者と制度の加入員の利益のことです。訴訟の舞台となっている信託は、基金の資産運用のための器のようなもので、委託者と受益者が基金となる自益信託であって、訴訟は、受益者兼委託者である基金が受託者の信託銀行を訴えたという構図になっています。
受益者としての基金の裏には、制度の受益者として、制度の加入員と受給者がいるわけですが、その受益者としての法律上の立場は、信託法上の受益者ではないので、本件のような訴訟構造では、当事者として登場し得ないわけです。
また、真の(あるいは実質的な意味での)受益者としての加入員と受給者に並んで、大きな利害関係を有するのは、基金に加入し、制度運営に必要な掛金を負担している企業です。
当基金は、その名の通り、九州で石油販売業を営む多数の企業が参加して設立されている総合型厚生年金基金ですが、今回の巨額な投資損失もあり、基金の総資産額が最低責任準備金額(厚生年金基金が国の厚生年金本体の給付を代行していることにかかわる給付原資として留保を義務付けられている資産額)を下回る状態、即ち、いわゆる代行割れの状態にあるようですから、加入企業には大きな追加的負担が発生すると思われます。
この負担を強いられる加入企業の立場というのも、一定の保護を受けなくてはいけないと思われるのです。つまり、委託者としての基金の裏には、真の(あるいは実質的な意味での)委託者としての加入企業があり、その加入企業の立場からみたとき、基金は実質的な受託者であるということです。しかし、やはり、今回の訴訟では、加入企業は、当事者として登場してきません。
基金が解散したら
実は、どうやら、この基金は、解散の方向にあるようです。もしこのままの状態で解散ということになると、加入員と受給者については、基金が厚生年金本体に対して上乗せ給付をしていた部分(プラスアルファと呼ばれるもので、このプラスアルファこそが、厚生年金基金の存在意義)が失われてしまう可能性が大きいと思われます。
しかも、加入企業は、代行割れの補填のために、大きな負担を強いられるだけでなく、これまで長年にわたり、厚生年金本体の保険料相当に加えて、プラスアルファ給付に対応する付加的な掛金を支払ってきたのに、それが無に帰してしまいます。
これでは、厚生年金基金制度の主旨を完全に没却した甚だ理不尽なことになってしまいます。現実問題として、基金は、制度が本来守るべき利害関係者の利益を守ることができず、社会的には、何らの付加価値も生むことができなかったのです。残ったのは厚生年金本体の給付だけであり、しかも、その給付に要する費用は、基金がなかったとしたときよりも、はるかに割高になってしまう、このような事態を放置することは、どうみても、社会的公正に反するようです。
新たなる訴訟の可能性
では、それら利害関係者の損失が確定したところで、改めて、別の構造の訴訟が起きるのでしょうか。実は、私は、本件に関しては、最初から、そのような形で訴訟になるのが、素直なあり方だったと思っています。
ところが、実際に起きた訴訟は、保護されるべき真の利害関係者を差し置いて、その損失が確定する前に、基金が信託銀行を訴える構図になっているのです。私が、違和感を覚えたについては、こういう背景があります。
さて、将来、新たなる訴訟が起きるかどうか、現状、不透明です。何よりも、訴えることの経済的実益が問題だと思います。
つまり、原告が誰であれ(給付減額となる受給者が一番わかりやすいですが)、訴訟の構造として、基金の資産運用管理に関する注意義務違反を問題とするしかないと思われますが、そのとき、被告となるのは、第一に、基金の資産管理責任者(理事長、常務理事、運用執行理事等)であり、第二に、受託信託銀行や運用機関になるほかありません。
さて、損害賠償を勝ち取ったとして、被告に支払能力がなければ、何の意味もないわけで、誰を被告とするかは、極めて重要な訴訟戦術となります。ということは、一番確実に取れるのは信託銀行だから、信託銀行を訴えるしかないのです。
ところが、今回の訴訟の第一審判決は、基金側の全面敗訴です。つまり、信託銀行の責任は、一切、認定されなかったのです。もし、最終的に、基金全面敗訴で確定すると、もはや、信託銀行の責任を問うことは、困難になるでしょう。
今回の判決の意味するところは、信託銀行の責任が認定されなかった以上、基金が負った損失は、全面的に、基金自身の投資判断に起因するということにならざるを得ません。新たなる訴訟において、基金の投資判断に重大な注意義務違反があると認定される可能性は、おそらくは、決して小さくはないでしょう。故に、勝てる訴訟になるのかもしれません。しかし、経済的に損害賠償負担能力のない理事らの個人に勝ったところで、何の意味がありましょうか。
醜い訴訟
ところで、本来あるべき訴訟において、ともに被告になるべき基金の資産管理責任者と信託銀行は、今回の訴訟では、それぞれ原告と被告となって争っているわけです。どうみても、何かおかしいですね。
こういっては、今回の訴訟の当事者に失礼かもしれませんが、本来、被告同士の内輪の争いになるべきものを、原告と被告で争うのは、いかにも醜悪ではないか、社会的公正に反するのではないか、これが私の第一印象です。おそらくは、多くの常識人にとっても、そう思えるのではないでしょうか。
基金側にも常識があるとすれば、今回、訴訟を起こしたについては、事実上、自らの投資判断における注意義務違反を実質的に認めているのではないですか。そうでないと、信託銀行を訴えようとの覚悟は起き得ないような気がします。
実は、私にとって、今回の訴訟の一番興味を引くところは、基金が信託銀行を訴えるのに際してとった論理構成です。それは、確かに、自分自身の責任を認めない限り、とり得ない構造だと思われるのです。
基金自身の責任を棚上げにした提訴
訴訟の背景にある事実は、基金は、特定の運用会社の複数の類似の不動産投資戦略に対して、総資産の75%を振り向けるという著しく偏った資産運用方針をとっていたのですが、その運用戦略は、著しく高いレバレッジをもつものであり、それが起因となって、運用会社は投資に失敗し、基金は巨額な損失を受けたというものです。
この運用会社の投資の失敗の背景については、私の目から見て、高すぎるレバレッジなど、倫理的な問題を強く感じるものの、当然に生じるべくして生じた損失として、そこに違法性を認めることは不可能ではないかとの印象をもちます。
いかに投機性(この場合、高すぎるレバレッジ)を帯びた運用であっても、いかに乱暴な運用であっても、運用者に認められた裁量範囲のことであれば、結局は、単なる下手な運用というほかはないのであって、この運用会社の法的責任を問うことは困難だと思います。もちろん、倫理的な責めは負うべきではあっても。
法的責任という意味では、このような投機性を帯びた投資戦略に、基金の総資産の75%を振り向けた基金の判断こそが問題なのです。では、その基金の運用に関する指示を、そのままに受け入れて事務執行した信託銀行には、責任はないのか、これが今回の訴訟の争点です。
ということは、理論的に、この訴訟が成り立つためには、基金自身の投資判断における注意義務違反が先にない限り、信託銀行の事務執行における注意義務違反の主張は成り立たないと思われるのです。実に、奇妙な裁判ではないでしょうか。
この裁判の実質は、基金が資産管理責任者に求められる節度から逸脱し、大暴走した挙句に、総資産の75%も特定戦略に集中的させてしまったことに対して、財産管理の受託者は、その暴走を止めるべく、分散投資の原則に基づく助言をすべきだったという主張なのであり、しかも、その主張をなすものが当の基金なのですから、さてさて、いかがものか。
そして、判決の主旨をわかりやすく述べれば、信託銀行には、馬鹿の逸脱暴走を止める義務はないということです。ならば、逸脱暴走した馬鹿の責任は、どうなるのか。それが、今後起きるかもしれない別の訴訟の争点となるのでしょう。
分散投資義務違反
基金の管理責任として、問題になるのは、分散投資義務違反ということになるのでしょうけれども、念のために、分散投資義務について述べておきましょう。
第一に、75%という数字は、それ自体として、問題となるのではないことです。例えば、債券に100%投資していても、それは、分散投資義務違反にはならないと考えられます。もっとも、米国の基準ですと、それではインフレ耐性がないので、「節度ある投資家(Prudent Investor)」の判断とはいえないと認定される可能性がありますが、少なくとも、日本の現状では、分散投資義務違反にはならないでしょう。
第二に、本件のような投機性をもつ戦略は、それ自体として、問題となるのではないことです。どのような投資にも、損失の可能性はつきものなので、所詮は、程度の問題にすぎないのです。例えば、5%の組み入れで、この5%のもつ危険性を十分に承知のうえで、残り95%の投資戦略が構築されているのならば、むしろ、模範的な分散投資のあり方となるのです。
しかし、ほぼ同じ内容をもつ投機性の高い戦略を75%も組み込めば、それはもう、どうみても分散投資義務に違反することは明らかなようです。ただし、本件については、信託銀行の助言義務の範囲として、法律は、基金自体の運用の不適切性を監視することまで求めていないという判断になっただけです。
機能しない制度の改革
この訴訟の意味するところは、見かけの醜悪さにもかかわらず、機能しない法律の仕組みを改正しなくてよいのかどうかなど、今後に課題を残したようです。
問題は、基金を律する法律の仕組みにあるのだと考えられます。法律の第一義的な目的が加入員と受給者の権利を守ることにあり、現に、その目的のために、基金の資産運用管理者に分散投資義務等の注意義務や忠実義務を課していたにもかかわらず、本件のような事態が生じ、その事態に監視が働かず、しかも基金自身の責任を棚上げにした醜い訴訟が堂々と提起されたことは、どこかに制度の欠陥がある可能性を示唆します。
もちろん、核心部は、基金の暴走にあるのです。しかし、その暴走を、監視し止める有効な手立てがなかったことは、制度が機能しなかったことを示すものだと考えられます。
確かに、判決の通り、現行法制のもとでは、信託銀行の助言義務は基金の運用の不適切性を監視することを含まないでしょう。しかし、立法論としては、そのような助言義務を信託銀行に課していたならば、今回の基金の暴走を防げたことも明らかなのです。事実、判決は、米国の制度においては、そのような助言義務が受託者にあることに言及したうえで、日本の制度は異なるとしているのです。
今回の判決は、原点の理念、即ち、加入員と受給者の利益を守るために何をなすべきかという視点に立ち返ったとき、制度設計に改善の余地があるのではないかという立法論への示唆が大きいと思われます。