フェスティバル化する「8.15」と「靖国」
コスプレイヤーが闊歩する「靖国」
8.15、鎮魂の日である。私は昼過ぎから靖国に向かった。先の大戦で亡くなった犠牲者の御霊を慰めるため、多くの参拝者らが朝早くから詰めかけ、大変な賑わいである。そのほとんどは厳粛な気持ちで昇殿参拝を行い、盛夏の過酷な日差しから逃げるように、黙々と靖国を後にする。しかし、境内で好例となっている「催し」に足を止める参拝客らも少なくはない。
「軍装隊」と呼ばれる、旧日本軍の軍服らを着た数名の異形の人々に多くの参拝者がシャッターを向ける。日本陸軍や予科練の制服を着た彼らに、居合わせた外国人らがツーショットを頼む。或いは若い女性が「カッコいい!」と叫んでピースサインをしながら海軍の将校服を着た中年の男性と記念撮影。いずれも、毎年8月15日になると靖国境内で必ず観ることが出来る好例のイベントだ。
軍装隊が仰々しい歩き方で広場の真ん中へ整列、「敬礼!」などと叫び、ハーモニカの演奏に合わせて「海ゆかば」を合唱する。プラスチック製の模造刀を振り回すパフォーマンスも。すかさず、取り囲んだ参拝客らから拍手。更に思い思いの角度からシャッターを切る音が聞こえる。まるでコスプレイヤーのイベントに来ているようだと錯覚してしまう。
境内では、ブースのようにそこかしこでアマチュア音楽隊が陣取り、軍歌を演奏・斉唱している。別段、軍歌を否定するつもりはないし、軍装がダメだというつもりもない。しかし、静かに犠牲者を追悼する「8.15」があたかもイベント化していることに多くの人が感覚を麻痺させているように思う。8月14日にも、8月16日にも、彼らは靖国には来ない。8月15日という特別な日に当てつけて、コスプレをしたり軍歌を歌ったりする事は、本来の追悼と鎮魂の精神に反するのではないか、と思うのは私だけではない筈だ。
毎年恒例となった「反天連」と「カウンター」デモ
しかし、この程度ならまだ可愛い方である。2009年から靖国神社近傍の九段交差点は、「天皇制解体」を掲げる「反天連(反天皇制運動連絡会)」なる左派系市民団体のデモ行進の進路となったため、これに対抗するべく保守勢力が「カウンター」と称して大挙して沿道から罵声を浴びせかけるのが、これまた「恒例行事」として定着している。
「反天連」は靖国神社を「戦争神社」と呼称し、昭和天皇を模したガイコツの紙人形を掲げて行進するものだから、ほとんど保守派で構成されている「カウンター側」の神経を逆なでにし、その憎悪は想像を絶するモノがある。「殺~ろせ!殺せ!反天連!」というフレーズが、拡声器で九段交差点に何度も何度も響き渡る。
ネット中継のために、ビデオカメラを片手にしたアマチュアカメラマンが、そこら中に待機して固唾を飲んで「反天連」の通過を待ち構えている。「反天連」のデモがいまどのあたりにいる、どの交差点を曲がった、あとどの程度の時間で九段に来る、という情報は、「カウンター側」で逐一SNSやLINEで情報交換され、その都度報告される。万全の体制で邀撃する「カウンター」側の鼻息十分。九段交差点はこのとき、異様な緊張と興奮に包まれる。「特」と大書きされた、黒ヘルメット完全装備の機動隊員の物々しい姿が、否応にも「戦場」感を増幅させるスパイスだ。
「反天連」のデモ行進参加者はせいぜい100人程度だが、前後に警察の装甲車、周辺に警備の機動隊がその数の何十倍も取り付き、一群となって九段交差点に侵入する段になると、膨れ上がった「カウンター」側は勢い2000人以上にもなり、口々に「死ね!」「殺す!」「ゴキブリ左翼!」などという罵声を沿道から絶叫するのである。その際、ペットボトルや空き缶がデモ隊に投げられることもある。沿道は警視庁によって何重にもバリケードが設けられ、直接「反天連」へ近づくことは難しいが、中には血気盛んな男性らが「突撃」を試みて警察官ともみ合い、つかみ合いの状態になるのもまた「恒例行事」である。
壮大なプロレス「反天連」と「カウンター」
私は、2011年8月15日、2012年8月15日の両日、「反天連」のデモ行進の最尾部に何食わぬ顔で入り込み、一連のデモ行進を共にした経験がある。実はこの「反天連デモ」、出発地点は水道橋にほど近い「YMCAアジア青少年センター」を起点として隊列を組んで行われるのだが、そこには「カウンター」側の姿は皆無で、20人程度の警察官が細々と警戒しているばかりなのである。「殺~ろせ!殺せ!反天連!」というフレーズを拡声器で絶叫している「カウンター」側は、わざわざ警視庁の警備厳重な九段で「邀撃体制」を敷くのではなく、出発点の「YMCAセンター」を狙えば良いのだが、そうしない。
当然のことだが、靖国神社に隣接する九段交差点で激しい罵声を浴びせることことが、「カウンター」側にとって最も重要な象徴的行為だからである。入り組んだオフィス街で目立たない水道橋ではなく、最も衆目の視線を浴び、その姿がネット放送に晒される九段交差点でないと、「カウンター」の意味がないと考えているのだろう。
尤も「反天連デモ」は、九段に差し掛かる手前、猿楽町(水道橋と神保町の中間付近)のオフィス街の路地で、激烈な罵声の洗礼を受ける。それは市井の市民、保守系市民団体らによって構成されるアマチュアに毛の生えたような「カウンター」などとは全く違う、「その筋のプロ」による洗礼だ。
彼らは本格的な街宣用マイクロバスに分乗して猿楽町に大挙乗り付けている。所謂「街宣右翼」らによる痛烈な街宣攻撃である。私は2年連続でデモ参加者としてこの罵声を甘受しながら歩いたが、その音量はクラブハウスさながら、罵倒表現の凄まじさはここで書くのを躊躇するレベルである。
私を左翼と勘違いしたその手の団体の構成員が、「お前を殺す」と絶叫しながら1メートルまで接近し、あわや顔面を殴られる一歩手前まで行った。彼らは的確で、合理的な対人攻撃の方法を熟知している武闘派である。当然、その刺青の男は即座に機動隊員に取り押さえられたが、これに比べれば九段交差点の「カウンター」などというのが如何に素人の「プロレス」然としているかがわかろう。
無論、「反天連」もそれを十分承知して行進の計画を立てているようだ。十重二十重にとりまいた機動隊員に守られ、所詮手出しは出来まいと高を括り、保守側の神経を逆なでする天皇呪詛の横断幕やシュプレヒコールを行なっている(しかし実際には脱原発などの、場違いな横断幕も多い)。
靖国と天皇制解体を声高に叫ぶ「反天連」の本来の趣旨に立ち返れば、それこそ事前にデモの届出などをせず、平日昼間に靖国の社務所へでも大挙して押しかけて抗議行動などに及べばよいが、そういう事はやらない。彼らにとっても、呪詛してやまないはずの国家権力である官憲に守られながら、「絶対に致命傷には至らない」安全圏の中で、最も衆目の視線を浴び、右翼からの罵声を一心に浴びることによる「正義の弱者、被害者」としてのナルシシズムに浸ることの出来るのが九段交差点なのだ。彼らもまた「プロレス」を演じる役者にほかならない。
”堪らない快感”と「靖国」
「カウンター」側の1人として、ある著名な保守活動家は、ツイッターで「反天連」のデモに対してこの様に表現した。*括弧内筆者
確かに、彼のいうように「反天連」側には「右翼に心ない罵詈雑言を受けてもなお、歩き続ける正義のマイノリティー」を演じられる「8.15」に、”堪らない快感”を感じていることは、既に述べたとおり疑いようもない。しかし私からすれば、それは「カウンター」側である保守勢力も全く同様のものを感じる。
「売国奴を叩きのめす正義の行使者」と自らを定義する「カウンター」側も、実際には絶対にそんなことはできないのに、「殺せ!」「叩き出せ!」と連呼する自らの姿に”堪らない快感”を感じているように私には思える。今や遅しと、紅潮した顔をほころばせ、九段交差点で「反天連」を待ち構える「カウンター」側には、確実に心の高鳴りが存在している。その浮き足立った興奮の感情を私は見逃さない。彼らはイデオロギー的な主張と全く関係のない領域で、単に刺激に飢えているのだ。
鎮魂と追悼の日、8.15。平和の誓いを新たにする日。冒頭の述べたように、この日、殆どの参拝者は参拝の目的を果たした後、すぐに家路につく。しかし、一部の心ない左右のイデオロギストたちの手によって今、「8.15」と「靖国」がイベント化され、ある種の「フェスティバル」と化していることが、ここ数年で定着しているという事実を忘れてはならない。
靖国には、西南の役から起算して現在、約246万強の御霊が祀られている。「8.15」と「靖国」のフェスティバル化は、その場所に眠る彼らの眼にどう映っているのか。馬鹿げたプロレスを観るたびに、私は本当に申し訳ない思いで一杯になる。来年の8月15日、終戦から70年目の夏がやってくる。70年の節目、過去最大の「フェスティバル」が”開催”されるに違いない。靖国で静かに祈りを捧げる日は、いつ、来るのか―。
*写真は全て筆者撮影。写真撮影に協力いただいた諸氏に御礼申し上げます。