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乱世の戦国時代、敗北を認め、潔く腹を切り責任を取った3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鳥取城 球面石垣。(写真:イメージマート)

 政治資金の問題が厳しく追及されているが、なかなか責任を認めないのが政治家である。戦国時代という生きるか死ぬかという時代にあって、負けた武将は潔く腹を切った。そのうち3人の武将を紹介しておこう。

◎吉川経家

 最初に、鳥取城の兵糧攻めで善戦しつつも敗北した、吉川経家を取り上げよう。天正9年(1581)、毛利方の鳥取城主・山名豊国が織田信長に降参しようとしたため、豊国の家臣が吉川元春に支援を要請した。こうして、鳥取城主として派遣されたのが、吉川経家である。

 しかし、羽柴(豊臣)秀吉は約2万の軍勢で鳥取城を取り囲むと、食糧の搬入ルートを断ち切り、鳥取城を兵糧攻めにした。城内の食糧は徐々に尽き、ついに城兵らは人肉を食らうようなありさまになった。結局、経家は秀吉に降参し、自身が切腹することと引き換えに、城兵の助命を嘆願したのである。

◎浅井長政

 次に、最後まで織田信長に抵抗した、浅井長政を取り上げておこう。滋賀北部に勢力基盤を置いた浅井氏は、永禄10年(1567)に長政が信長の妹・お市を妻に迎え、織田家との関係を強化した。元亀元年(1570)、信長が越前侵攻を開始すると、長政は六角氏、朝倉氏と同盟を結び、信長に敵対したのである。

 しかし、同年の姉川の戦いで、長政は信長と徳川家康の連合軍に大敗。その後も反信長勢力と連携し、信長と交戦し続けた。天正元年(1573)、足利義昭を追放した信長は、余勢を駆って近江に侵攻し、長政の居城・小谷城は落ちた。長政は無念の思いを抱きながら、小谷城で自害して果てたのである。

◎別所長治

 最後に、三木城主で約2年にわたる籠城戦を戦った、別所長治を取り上げることにしよう。もともと長治は織田信長に従っていたが、天正6年(1578)に羽柴(豊臣)秀吉が中国計略を行った際、トラブルが生じて織田方から離反した。その後、長治は毛利輝元、足利義昭の陣営に属したのである。

 当初、長治は優勢だったが、秀吉が三木城を兵糧攻めにすると、徐々に戦いは不利となった。しかも、毛利氏からの兵糧も届かなくなっていった。天正8年(1580)1月、長治はついに秀吉の兵糧攻めに屈し、自身と一族が切腹することを条件として、城兵の助命を嘆願したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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