樋口尚文の千夜千本 第31夜「あん」(河瀬直美監督)
「神話性」のアクを抜いた餡の滋味
告白すると、河瀬直美監督の作品が例外なく苦手であった。苦手というのだから、別に評価をしていないわけではない。ただこういう形式の映画はあっていいのだけれども、(あくまで個人的に)どうにも生理的に受け付けないところがあった。それがどういう点であるかもはっきり自覚している。
ひとつは、河瀬直美という人は(乱暴な推測に過ぎないが、印象として)過去の映画をあまり観ていないのではないだろうか。そうでなければ、出発当初からあんな自由奔放な映画は撮れないという気がする。逆に言えば、映画の歴史は敬虔に学べば学ぶほど作り手としては気ままな動きを封じられてしまうので、作家が過去の映画遺産を観すぎて呪縛されてしまうのも考えものではある。
が、たとえば同じく海外での評価が高い黒沢清監督は、映画の細部にまで、それこそゴダールからリチャード・フライシャーまで観まくった映画の教養がにじみ出ていて、文体も繊細なうえにも繊細である。しかし、河瀬直美監督の作品にはそんな黒沢清作品のフェミニンさは見出しがたく、ほぼ映画遺産には目もくれず傍若無人にカメラを回す勢いとマッチョさが漲っている。しかも、その映画史には無頓着に、自然児的な勢いで撮りたいものを撮る・・という姿勢でのぞんだ作品が、しょっぱなからカンヌを始めとする海外で高い評価を集めてしまったので、もう評する側としては嫉妬半分疑問半分で「それでいいのか」という気分になってしまうのであった。
もう一点は、まさにその海外での評価のよって来るところでもあるのだが、作品に一貫する「神話的」な象徴性、特に地元の奈良という場所をめぐるその傾向が、おそらく海外では神秘的なオリエンタリズムを醸したキラー・モチーフになっているに違いないが、日本人としては余りにも河瀬監督の思い入れの激しい個人的ファンタジーに見えてしまって、これがどうにも食えないのであった。俳優陣は頑張っていた『朱花の月』などもその木に竹を接いだような「神話性」が辛くて、いっそもっと普通のドラマにしてくれたらと夢想した。この傾向が薄らいだほうの近作『2つ目の窓』もそういう細部が現れるたびに感情が寸断されてもったいなかった。
そんな河瀬監督の『あん』も、観る前はまた恒例の「神話的」世界に置いていかれるのだろうかと心配しながら試写にのぞんだ。始まる前に、この映画の美術を担当した部谷京子さんが声をかけてくださったが、私はさすがに作品に精魂こめたスタッフに、試写の直後に「やっぱり苦手な作品でした」などと感想を言うほど野暮天ではないから、終わった後に部谷さんとどういう顔で会話をしたものかと聊か気をもんだ。だが、観終えた後の私は目を真っ赤にした部谷さんと手を取り合って(誇張ではない)問答無用の傑作の誕生を寿いだ。
物語はシンプルである。永瀬正敏扮するかつてある挫折をした男が、細々とどら焼き店を営んでいる。そこそこにお客はいるが、しかしどら焼きづくりを究めようというほどの意欲もなく、まあ何事もほどほどにうっちゃるような気楽な日々である。ところがある日、樹木希林扮する正体不明の老女が現れ、その店で働かせてほしいと願い出る。男は、けっこう力仕事で腰に無理が来るどら焼きづくりは高齢では無理だと、いったんは老女の申し出を断るのだが、老女が試しに食べてみてと置いて行った餡のあまりの美味しさに、その作り方を伝授してほしいと逆に老女に請う。長年にわたって餡をつくってきたという老女は男に製法を開陳するが、それはそれは時間もかかった丁寧なものである。その面倒臭さに当初は唸った男だが、老女の協力を得て今までの餡づくりの手抜きを改めると、みるみるお客の数は増え、なんと行列店になってしまう。好評を受けての多忙さゆえ、老女も下ごしらえだけでなく店に出るようになり、順風満帆かという時に、老女をめぐる思わぬ風評が出回る・・・。
過去の挫折を抱え、長い禊ぎの過程のように、静かにどら焼きをつくり続ける永瀬正敏が、とにかく余りにもいい。近年は台湾で成功をおさめた『KANO』でも評判になった永瀬の演技だが、口数も最低限という感じなのに、その何気ない語りと限定された動きのなかに、この傷を背負った市井の中年男の人物像が見事に浮き彫りにされる。また、永瀬に人生の確かなものを気づかせる樹木希林は、このところ『駆込み女と駆出し男』『海街diary』などの話題作に続々顔出してはあいかわらずの存在感を見せつけていたが、出ずっぱりの本作では細かな器用さを自らに禁じ、演技者としての・・・というより人としての年輪だけで演じきろうとする姿勢が、観る者を厳粛にさせずにはおかないだろう。
そして、私にアレルギーを起こさせていた河瀬作品の「神話性」は抑えに抑えられ、無私なまなざしで過不足なく永瀬と樹木の動静をとらえてゆく河瀬演出が素直にいいものとして感じられた。それはいわゆるドキュメンタリー・タッチというのでもなく、いつもの河瀬作品よりも虚構的な枠組みがしっかり踏まえられているのだが、そもそもが自然児的に自在な演出を身上とする監督なので、むしろこのくらい虚構的な縛りがあったほうがいいあんばいのような気がした。それゆえに、最後のほうの樹木希林のある気高く美しいショットが、おなじみの奈良の風景のなかで抽象的な「神話性」を帯びても今回は大げさにならず、むしろ静謐な語りのなかでのひとときの劇的な瞬間としてすんなりと受け止められた。
また、そんな本作においてとても意義あることと思ったのは、この物語の後半がはらむハンセン病と差別をめぐる扱いである。ハンセン病患者差別をめぐる日本映画といえば『ここに泉あり』『砂の器』『愛する』『ふたたび swig me again』などが思いつくが、本作では、差別側の本音の心境にもふれて、被差別者と周囲の人びとが偏見を脱していくことの困難さを直視しつつ、彼らがそんな偏見の向こうにたゆみなくつかもうとしている美しい世界を、ごくごく静かな厳格さで見つめているところが特筆に値すると思う。ことさら肩をいからせたり絡んだりするのではなく、素朴に理にかなわず許しがたいことは許さないというごく自然体のきっぱりとした態度が、いかなるパセティックな「社会派映画」よりも観る者を頷かせるに違いないし、そこが作品を終始爽やかなものにしていた。
さて、永瀬と樹木のことばかり記したが、本作は助演者たちもいちいち印象的で、これもベストな配役であろう市原悦子、ちょっと感じの悪い役柄をきちんと演じている浅田美代子と水野美紀、爽やかな傍観者である内田伽羅(樹木の孫娘とは驚き!)ほか、はずれなしの配役である。そして、部谷京子さんがこしらえた平凡でそっけないどら焼き屋のセットが、これもまた助演賞もののなじみ具合であった。