引き分けに等しい結末になった、信玄公旗掛松裁判
公害は高度経済成長時代に問題になっており、数々の訴訟が起きたことさえあります。
そんな公害訴訟ですが、戦前にも似たようなことはありました。
この記事では戦前にあった公害訴訟、信玄公旗掛松事件について紹介していきます。
まだ決まっていなかった賠償額
信玄公旗掛松事件の判決が大審院で確定した後、争点は賠償金額の算定に移行しました。
1919年5月19日、甲府地方裁判所で賠償金額決定訴訟が開廷されましたが、裁判は示談を中心に進められたのです。
裁判長の吉田は示談金500円を提案し、原告の清水倫茂はこれを受諾しましたが、被告である鉄道院は300円なら応じるとして拒否します。
示談交渉は不成立に終わり、「鉄道院が裁判長の顔を潰した」と地元新聞で報じられました。
鉄道院が500円に応じなかった背景には、樹木の価値基準に対する疑問がありました。
鉄道院側は、大審院での敗訴後、複数の生物学者に信玄公旗掛松の樹齢を鑑定させ、老松の樹齢は約160年であるとの結果を得たのです。
1920年から1921年にかけて、この鑑定結果は新聞で繰り返し報じられています。
著名な植物学者三浦伊八郎や松平東美彦がこの鑑定に関わり、松の価値を科学的に裏付けました。
そして1921年2月15日、甲府地方裁判所で賠償額決定の判決が言い渡されました。
裁判所は信玄公旗掛松が地域にとって特別な存在であることを認めつつも、鑑定結果に基づき、松は信玄の時代のものではなく、樹齢160年のものであったと判断します。
賠償額は449円とされ、慰藉料50円を加えた合計499円が最終的な額となりました。
この額は示談交渉で提案された500円とほぼ同じであり、訴訟費用の9割を鉄道院が負担することが決定したのです。
一方で、鉄道院(国)はこの判決に不服を示し、再び東京控訴院へ控訴しました。
信玄公旗掛松は地域住民にとって信仰的な存在であったものの、賠償額の根拠としては伝承の価値よりも科学的な証拠が重視され、結果として鉄道院に不利な判決が確定したのです。
引き分けに等しい結末になった信玄公旗掛松事件
信玄公旗掛松事件に関する裁判の最終判決は、1922年4月11日に東京控訴院で下されました。
この判決では、一審で認められた賠償額499円が72円60銭に大幅減額され、さらに訴訟費用の負担割合が原告清水倫茂9割、被告鉄道省(国)1割と、一審判決と逆転したのです。
特に松樹に対する賠償金は、一審では449円とされていたのに対し、二審では22円60銭に減額されました。
この根拠として、裁判所は損害算定の基準時を松が枯死した1914年に変更し、枯死した状態の材木として評価したためです。
信玄公旗掛松の歴史的価値は無視され、伝承としての価値ではなく、薪材としての実質的な価値が重視された結果でした。
また、訴訟費用の負担割合については、一審では鉄道省が9割を負担するとされていたにもかかわらず、二審では清水が9割を負担する結果となり、清水にとって不利な判決となりました。
このため清水は「誤記ではないか」と控訴院に訂正を申し立てましたが、1924年に却下され、最終的に訴訟を断念したのです。
この判決により、賠償額は実質的にほとんど認められず、清水は裁判費用の大部分を負担させられる形で終結しました。
事件は1925年9月に正式に終了し、信玄公旗掛松事件は歴史に幕を下ろしましたが、松樹の価値に対する評価と賠償算定基準については、今でも議論が続いています。