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青年時代の豊臣秀吉は、矢作川の橋の上で蜂須賀小六と出会い、のちに家臣にしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉のキャラが注目されている。ところで、青年時代の豊臣秀吉は矢作川の橋の上で蜂須賀小六と出会い、のちに家臣にしたというが、事実なのか考えてみよう。

 豊臣秀吉の出自は農民といわれており、青少年期の史料が乏しい。一方で、青少年期の秀吉は、多くのエピソードが伝わっている。秀吉が矢作橋(愛知県岡崎市)で蜂須賀小六と出会い、のちに家臣に加えたというのも、代表的なエピソードの一つである。

 秀吉は、木下弥右衛門と「なか」の子として誕生した。父は農民あるいは足軽だったといわれているが、詳しいことはわかっていない。後年、秀吉は近しい人に対し、貧しい生活を送っていたことを述べている。秀吉は貧しさから抜け出すため、大きな志を抱いたのは疑いないだろう。

 秀吉が7歳のときに父が亡くなると、近所の光明寺に入れられた。しかし、秀吉は寺院の生活を潔しとせず、寺を抜け出して放浪の旅に出た。15歳になった秀吉は、父の遺産から1貫文を受け取り、武士になることを志した。

 当時、東海地域の大名といえば、今川義元が威勢を振るっていた。今川氏に仕官しようと決めた秀吉は、まず義元の本拠の駿河に向かったのである。その途中、貧しく宿泊費がなかった秀吉は、矢作橋の上で一夜を過ごそうとした。

 そこへ現れたのが、当時、野武士集団を率いて盗みを働いていた蜂須賀小六(正勝)だった。小六らの一行は、矢作橋の上で寝ていた秀吉の頭を誤って蹴飛ばしたという。暗くて、よく見えなかったのだろう。

 怒った秀吉は小六らを呼び止め、侘びを入れるよう睨みつけたという。有名なエピソードとしてご存知の方も多いだろうが、橋の下に寝ているのならともかく、上で寝ていたというのが不審である。

 秀吉が立身出世を果たすと、小六は有力な部将として配下に加わった。2人はたまたま主従関係を結んだのではなく、背景に強烈なエピソードがあったことにしたかったのだろう。

 いずれにしても、この話には大問題があった。東京帝国大学の渡辺世祐氏は、当時、矢作川に橋が架かっていなかったことを指摘し、この逸話が誤りであることを明らかにしたのである。

 秀吉の青少年期は怪しい話が多いので、注意が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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