【富田林市】近鉄川西駅の秘密。その昔、あの難解地名が駅名だったこと、単線高架駅になっている理由とは。
富田林市内の東側は、近鉄長野線が縦断していますね。富田林市内に5つ駅がある中で、川西駅だけ唯一、高架駅になっています。それだけではなく、川西駅は一時期別の駅名だったことがあったそうです。そのあたりがとても気になったので、いろいろ調べてみました。
川西といえば、大阪南部に住んでいる人以外だと、兵庫県の川西を思い出すかもしれません。富田林の川西駅の川西とは、1942(昭和17)年に富田林町(富田林市)として合併する前が川西村だったからです。
川西駅の歴史を見ると、河南鉄道の時代にさかのぼります。1911(明治44)年8月に、学校前(現:富田林西口)と滝谷不動駅の間に新規開業しました。当時の名前は今と同じ川西駅です。
普通に考えると当初から川西駅として現在まで引き継がれているのかと思ったのですが、意外にも一時的に別の名前になっていたのです。
それは1920(大正9)年から1933(昭和8)年の間で、駅名はなんと廿山(つづやま)駅だったというのです。難解地名が多いとされる南河内地域でも、毛人谷(えびたに)と並んでトップに位置づけられることの多い廿山が駅名というのも驚きですね。
でも何でこの駅名になったのでしょうか?ひとつは前年の1919(大正8)年に河南鉄道が大阪鉄道に社名を変更したことが関係している可能性が考えられます。実は社名変更後に一時的に廃駅になったことがありました。
資料によると、川西駅は1920(大正9)年4月にいったん営業廃止となりますが、半年後の9月11日に営業再開します。その再スタートした時の名前が廿山駅だったのです。
復活させたのはともかく、なぜ川西駅ではなく廿山駅だったのか、はっきりしたことは情報がなくわかりません。ただ川西村という名称は1899(明治32)年から使用していて、その前は廿山村だったので、それがか影響している可能性が考えられます。
しかし、1933(昭和8)年に川西駅として再度名称変更しています。
その後の川西駅は、廃駅になることなく今に至ります。1979(昭和54)年に高架化工事が行われ、その3年後に完了して今の高架駅の形になりました。
この高架化の理由ですが、国道309号線との立体高架化に伴うものでした。国道309号線は大阪外環状線のようにバイパス国道で、多くの車が通過していきますが、その通行が円滑に行えるように川西駅を高架にしたんですね。
また近鉄長野線が単線で、ホームが1か所だけ、かつ撤去した踏切がひとつだけだったために、大阪府と協議して近鉄の負担が通常の半分で済んだそうです。
高架と言えば昨年、喜志駅の南側、これも道路との立体交差という理由で高架工事が行われ、完成したということで見学会に行きました。あちらは複線で駅はありませんでしたね。さて川西駅の高架化完成当時も見学会が行われたのでしょうか?
ところで川西駅が高架になったことで、ある問題が起きたそうです。
それはこちら。駅からPLの塔(大平和祈念塔)がよく見えますが、2019年まで行われていたPL花火芸術(PL花火)を見ようと、多くの人が川西駅のホームに滞留してしまうことがあったそうです。
そのため花火当日は、特別に駅員や警備員を配置して、ホームでの花火見物を禁止していたのだそうです。
確かにこの位置から花火がよく見えたのでしょうね。
というわけで、電車が来ましたので、川西駅の紹介を終わります。高架の駅なので新しい駅のように思いますが、実は明治時代から存在した川西駅。駅のエピソードを探れば、いろんなことがあったのですね。
近鉄川西駅
住所:大阪府富田林市甲田3丁目2
アクセス:近鉄川西駅直結