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英国のクリスマス(3) 「クリスマス・キャロル」を楽しむ

小林恭子ジャーナリスト
「クリスマス・キャロル」のイベントのチラシ

クリスマスへの準備でにぎわう英国だが、人口約6000万人の中で、キリスト教徒は一体どれほどいるのだろう?

国家統計局(ONS)が11日、発表したイングランド・ウェールズ地方(英国全体の人口の約5分の4を占める)の国勢調査(2011年)を見ると、自分は「キリスト教信者」と答えた人は59%、約3320万人。10年前の国勢調査では72%(3730万人)であったので、11%減少した。

一方、「特定の宗教を信じない」とした人は、15%(770万人)から25%(1400万人)に増えている。

そのほかの内訳を見ると、5%が「イスラム教徒」、4%が「そのほかの宗教」、7%が「表記なし」だった。

英国のほかの地方―スコットランドや北アイルランドーを加えた全体はどうか?

BBCのキリスト教についてのページによれば、英国のキリスト教徒は約4200万人。そのうちで、定期的に教会に行く人は600万人ほどだという。

ほかの複数の調査(British Social Attitude, British Humanist Associationなど)を見ると、、キリスト教徒であることを調査などで明確にする人は人口の半分か、せいぜい60%ほど。

それでも、12月になると、なぜか「クリスマス一色」になってしまうのだから、不思議なものだ。

クリスマス・シーズンに何度もテレビで再放送されるのが、ビクトリア朝を代表する作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870年)の小説「クリスマス・キャロル」の映画化作品。これまでに何度もドラマ化されている。今年はディケンズの生誕から200年にあたる。

けちで意地悪な商売人スクルージが心を入れ替えるまでを描いた作品「クリスマス・キャロル」。「スクルージ」といえば「守銭奴」として英語の語彙にもなっている。

もともと、「クリスマス・キャロル」とはクリスマス聖歌のこと。「キャロル」には踊りのための歌という意味があるが、共同体の「祝歌」あるいは宗教儀式などにおいて歌われる賛美歌の一種とされるようにもなった。クリスマス・イブの夜に歌うのがクリスマス・キャロルだ。「清しこの夜」、「もりびとこぞりて」など複数の歌が日本でも著名だ。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」で冒頭部分に使われているのが、1830年代に出版された「世の人忘るな」(God Rest Ye Merry, Gentlemen)というクリスマス・キャロルである。

ーみんなで歌おう

「A Christmas Carol」と題された音楽イベントが、近くの教会で開催されるというので、足を運んで見た。

席に座ってじっくりと合唱を聞こうと思っていたら、「観客の皆さんも一緒に歌ってください」と言われ、やや緊張。

この日歌われる聖歌は「いずれも、ディケンズが生きていた時代のもの。ディケンズも耳にしていたことがあるかもしれません」と指揮者に言われ、急に教会内にビクトリア朝の空気が入ってきたような気がした。

地元の合唱団の声が、教会内部の高い天井に向かって上ってゆく。男性の歌い手たちの低音から女性の高音が、のびのびと広がる。

歌の合間に、朗読の男性が出てきて、「クリスマス・キャロル」の物語を読んでゆくー。

時には観客も一緒に歌いながら、あっという間に休憩の時間となった。

ジュースやワインが配られ、熱々のミンスパイ(ドライフルーツ、ブランデー、砂糖などが入った小型のパイ)をたくさん載せたお盆を持った子供たちが、「一個、どうぞ」と勧めてくれる。ミンスパイはクリスマス時に欠かせないお菓子だ。

後半も合唱団の声に耳を傾け、自分でも歌いながら、「クリスマス・キャロル」のドラマに耳を済ませた。

けちん坊のスクルージは、孤独で死んでゆく自分の姿を知って、改心し、クリスマスの日、親戚や部下に優しく当たるようになる。大団円の結末については既に知ってはいても、改めて、音声で肉付けされて聞いてみると、胸に迫る温かさがある。

―ディケンズとは?

クリスマス・キャロルのイベントで、朗読者にディケンズの姿を思わず重ねてしまったのだが、というのも、ディケンズ自身が、小説を書くばかりか、自分の作品を朗読することで有名だったからだ。

生誕から200年という今年が終わるまえに、ディケンズの生涯を少し振り返って見よう。

ディケンズは、「クリスマス・キャロル」のほかにも、「オリバー・ツイスト」、「大いなる遺産」など、いまや英国の社会や文化の一部となった作品をたくさん書いた小説家だ。

生まれたのは、イングランド地方南部ハンプシャー州ポーツマス郊外、ランドポートであった。

父は海軍の会計士。中流階級の長男として生を受け、お金には不自由なく暮らせるはずであった。ところが、両親はそれほど金銭感覚に長けた人たちではなかったらしく、負債が急増。1820年代初期、一家は破産状態となり、ディケンズは12歳で靴墨工場で働くことになった。

ディケンズの小説にはロンドンの債務者監獄マーシャルシーの様子が出てくるが、実際にこの頃、父親がこの監獄に収監されている。

法律事務所で働き出したディケンズは、速記を学ぶようになり、ジャーナリストを目指した。日刊紙「モーニング・クロニクル」の記者となったのは1834年、22歳頃のこと。靴墨工場での勤務から、独立独歩でここまでやってきたディケンズは、意思が相当強い人間であったに違いない。

記者の仕事の合間に「ボズ」という筆名でエッセイを書き始め、雑誌に掲載されるようになる。エッセイを集めた作品が1834年に出版され、ディケンズは夕刊紙「イブニング・クロニクル」紙編集長の娘キャサリン・ホガースと結婚した。公私ともに、また1つ階段を上がったわけだ。

―いよいよ、作家に

ディケンズが長編小説「オリバー・ツイスト」を、自分が編集する雑誌「ベントリーズ・ミセラニー」に発表したのは1837年であった。その数年後には「クリスマス・キャロル」を出版。後者はその後も毎年刊行するようになる、クリスマスに関わる本=「クリスマス・ブックス」の最初であった。

その後も次々と小説を発表し、国民的な人気を得る作家となってゆく。作家であると同時に複数の雑誌(「ハウスホールド・ワーズ」、「オール・ザ・イヤー・ラウンド」)編集長でもあった。また、自分の作品の公開朗読も英国内の各地や米国で積極的に行った。米国にも出かけ、朗読会を敢行している。

ディケンズの作品はリアリズム、喜劇的表現、優れた散文表現、性格描写、社会評論では群を抜くといわれているが、過度に感傷的と批判する人もいる。

小説では主人公が貧しい少年・少女で、幾多の事件を乗り越えて、最後は幸せを掴むというパターンがよく見受けられる。幼少時の貧困の体験、自力で成功していったことなど、ディケンズ自身の人生とダブるようにも見える。しかし、暗い話ではあっても楽天主義とユーモアが隅々に顔を出し、読者に充実した読後感を与えてくれる。

ディケンズはビクトリア朝(1837-1901年)の時代を生きた。英国が最も繁栄した時代だったが、貧富の差が拡大した時でもあった。晩年のディケンズが目を向けたのは社会の底辺層を救うこと。小説やエッセイを通じて、貧困対策や債務者監獄の改善などを主張した。

1865年、ディケンズは列車事故に遭遇し、九死に一生を得たものの、その5年後、1870年6月8日、ケント州の邸宅で脳卒中の発作に見舞われた。亡くなったのは翌日である。書きかけの「エドウィン・ドルードの謎」は未完成となった。享年58。各地を回った朗読会が死期を早めたという説がある。

妻キャサリンとの間には10人の子供をもうけたが、本当に結婚したかったのはキャサリンの妹メアリ(後、病死)であったといわれている。夫人とは亡くなる12年ほど前から別居していた。ディケンズの遺体はウェストミンスター寺院の詩人の敷地に埋葬された。

小説を書くばかりか、朗読会で読者と直接つながる場を持ち、社会問題の解決にも言論人として積極的に関わったディケンズ。いまもし生きていたら、ブログやSNSでたくさんのファンを作る人気者となっていたかもしれない。

(筆者のブログ「英国メディア・ウオッチ」、「英国ニュースダイジェスト」掲載の筆者記事を一部引用しています。)

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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