講談社元社員の「妻殺し」とされる事件を報じたNHK「クロ現」の大きな反響
4月20日放送のNHK「クローズアップ現代」が反響を呼んでいる。「妻は夫に“殺された”のか 追跡・出版社元社員“事件と裁判”」と題して、講談社『モーニング』編集次長だった朴鐘顕さんが2017年1月に、妻殺害容疑で逮捕され、1審2審で有罪判決をくだされた事件について取り上げたものだ。
いまNHKの番組は「NHKプラス」を利用すれば簡単に見逃し視聴ができるから、見逃した人はぜひ見てみることをお勧めしたい。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4655/
この事件は、夫が妻殺害という容疑で逮捕・起訴され、しかも夫の言い分では妻が自殺して悲しみに暮れている時にその夫自身が犯人とされた。さらに母を失い、父親が殺人容疑で逮捕されるという境遇に子どもたち4人が追いやられたという、亡くなった妻が他殺か自殺かで状況が180度ひっくり返る特異な事件だ。有罪判決がもし誤判だとしたらとんでもないひどい事件だし、多くの人の関心をひくのは当然だ。にもかかわらず昨年まであまり踏み込んだ報道がなされてこなかった。
この事件と裁判については、月刊『創』(つくる)で昨年、3回にわたって取り上げ、裁判のあり方に大きな疑問を提示している。決定的な証拠は何もない、状況証拠だけによる有罪認定だが、判決にはかなり無理がある。警察と検察の予断に基づいた判断をそのまま裁判員が受け入れて有罪を宣告してしまった疑いが残るものだ。「クロ現」では、元裁判官や法医学者が重要なコメントをしているのだが、特に元裁判官の水野弁護士の見解は、裁判のあり方にまで言及した重たいコメントだった。
反響の賛否それぞれの中身は…
この番組が反響を呼び、賛否両論が吹き荒れているのは一言で言えば、そこまで踏み込んだ内容だったからだ。通常、係争中の事件でしかも1・2審で有罪判決が出ているとなれば、大手メディアが独自取材でそれに疑問を投げかけるような報道はリスキーだとしてなかなかなされない。本当はそういう事例こそ、ジャーナリズムが検証して問題提起すべきなのだが、そうはなっていないのが今のマスメディアだ。その意味では、この「クロ現」は半年にわたる丹念な取材を積み重ね、本来の「クロ現」らしさを示したものだったといえる。
ただそれゆえに賛否両方の反響が押し寄せたようだ。賛成の意見はもちろん、よく取材して踏み込んだ問題提起を行ったというものだが、批判の方は、どうして被告人を擁護するような報道を行うのかというものだ。
ひとつ気になったのは、朴被告による他殺説を信じる人が論拠としているのが、亡くなった妻が夫の暴力を訴えていたというのではないかという説のようだ。実はこれはこの事件を探ろうとすると最初にぶつかる見方なのだが、ネタ元は単純で、『女性セブン』の下記の報道だ。
https://www.news-postseven.com/archives/20170112_483524.html/2
逮捕の講談社編集次長の妻「夫の暴力に悩んでる」と語っていた(NEWSポストセブン)
事件の後、近所の聞き込みを行った『女性セブン』の記者がそこで聞いた話をそのまま書いたのだが、この事件の被告弁護人に尋ねると全くの事実無根だという。
被告側の弁護人である山本衛弁護士は、『創』昨年7月号で森達也さんにDV説について訊かれると即座に「完全に誤りです」と答えている。その7月号の記事は全文をヤフーニュースに公開しているから、気になる人は下記を確認してほしい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4b8bd065edde2ff04e774e52b38817bf53c3dd8
講談社元社員「妻殺害」判決はどうみてもおかしい
亡くなった妻が夫の暴力に悩んでいたという話が本当ならかなり決定的な証言で、それゆえにこの事件について検索すると、いまだにこの記事が上位に出てくる。大きな影響力を行使しているわけだ。弁護人が言うように「完全に誤り」だとしたら、一度きちんとファクトチェックをしたほうがよい情報だと思う。
今回のNHK「クロ現」は、事件の背後に妻の「産後うつ」があったのではないかという見立てでかなり踏み込んだ取材をやっている。これもこれまであまり踏み込まれていない論点で、この事件の背景に、現代の家庭や夫婦関係をめぐって考えてみるべき問題がいろいろ潜んでいることを示している。
昨年までなぜそうした論点が報道によって提示されていなかったかというと、妻が死亡、夫は逮捕され、残された家族は逮捕時の洪水報道に恐怖を覚え、関係者がいっさい取材に応じなかったことも一要因だ。『創』は昨年8月号で、朴被告の母親の詳細な証言を初めて報じたのだが、これもヤフーニュースに全文公開している。それまでこの事件についてこういう関係者の詳細な証言は報道されていなかった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3c730d16b1aaff1952ca1cc5432505854c763708
「妻殺害」判決の講談社元社員母親が語った「殺害はありえない」
「クロ現」では30分という時間的制約もあってか、論点が絞られており、裁判で審理されたいろいろな問題、例えば現場で事件当時どういう経緯があったかについては、ある程度簡略化されてわかりやすく説明されていた。そこで、それを補う形で、『創』の昨年9月号に書いた、裁判で争点となった事柄についてここで説明しておこうと思う。
なお昨年来、『創』の報道もひとつのきっかけになって大手メディアも取材に動き出しているのだが、今回のNHKのほかに熱心にとりくんでいるのは『週刊朝日』だ。既に独自の視点による記事を一度掲載しているが、今回新たに獄中の朴被告の手紙を報道。「AERAdot.」にも下記の記事をあげている。
https://dot.asahi.com/wa/2022041900065.html
「妻殺害」容疑で収容中の「モーニング」元編集次長がメディア初告白「子どもたちのところへ帰りたい」
当初の被告の説明の変遷に警察が不審の念を
そもそもこの事件は、朴被告によると、生後10カ月だった二男を含む4人の子どもを育て、しかも夏休みゆえに毎日子育てに追われるなかで、妻が育児ノイローゼのような状態に陥り、深夜に帰宅した夫ともみ合いになった末に命を絶ってしまった、というものだった。
しかし、当初、子どもたちのために母親が自殺したことを隠し、階段を転落して亡くなったことにしようと考えた朴さんの説明が変遷したことに、警察が不審の念を抱いた。そして、寝室で夫婦がもみ合いになった現場に失禁の跡があったことをもって、警察は、夫が妻を殺害したのではないかと見込んだらしい。
朴さんやその家族にしてみれば、妻の佳菜子さんが亡くなった悲しみに包まれている時に、殺人犯として朴さんが逮捕されるという衝撃の展開だった。しかも、これは何かの間違いだと、裁判で無罪が明らかになると思っていたのに、1審ばかりか2審も有罪という、まさかの展開だったという。
このまま最高裁で有罪が確定すると、4人の子どもたちは、父親が母親を殺害したという、あまりに重たい十字架を将来にわたって背負うことになる。だからそれは誤判であってはならないのだが、実際には、この裁判には数多くの疑問が残されている。
夫による妻殺害という判断を下すなら、よほど確かな証拠が求められるはずなのに、決定的なものは明らかになっていない。朴被告が子どもたちに見られないようにと、血を拭き取ったりした後に警察が現場に来ているため、現場の厳密な保存もなされていない。
自殺説と他殺説が争われたこの裁判で具体的に何が争われているのか、そしてそもそも被告側と検察側がそれぞれ主張する、現場の状況はどうだったのか、紹介しよう。
弁護側が提出した妻の遺体の顔写真
2021年8月、上告趣意書が最高裁に提出されたのだが、弁護側がこれは決定的だと考えているのが1枚の証拠写真だ。2016年8月9日未明に亡くなった佳菜子さんの顔面のカラー写真だが、これまでの裁判に証拠として提出されていたのは、それをコピーしたものだった。2審判決が佳菜子さんの出血状況、顔面の血の跡などを有罪判決の論拠としたため、弁護側はわざわざ病院にあたって、元の鮮明な写真を入手したのだった。
佳菜子さんの顔面には、額の左側に大きな傷(挫裂創)が残っており、階段から落ちた際にできたとされているが、争点になったのは、その傷を負った時に彼女がどういう状態だったのか、ということだ。検察の主張する他殺説は、その傷を負う前に寝室でのもみ合いで殺害が行われ、朴被告が隠ぺい工作のために脳死状態の佳菜子さんを階段から転落させたという見立てだ。
朴被告の説明ではそうでなく、階段から転落したと思われる後で、佳菜子さんは階段の手すりに巻き付けた上着を首にかけて自殺したことになっている。
だから、その挫裂創の出血状況は、傷を負った時に彼女が脳死状態だったのかそうでないのか判断する材料となる。
実際、裁判所に検察側が提出した写真では、顔面の左側に血の跡とも影とも見える黒い部分が見えるのだが、2審判決は、顔には痕跡が見られないと断定してしまっているのだ。判決文を引用しよう。
《自殺ストーリーを前提として、①本件挫裂創からの出血に関する痕跡、②階段上で被害者が窒息死した場合の本件挫裂創からの出血に関する痕跡について検討したところ、①については、被害者の遺体(手・顔)や、血を拭うなどした際に使用した可能性のある物という形で現場に残っているはずの痕跡がなく、客観的な証拠と矛盾し、②については、被害者の遺体(顔)・着衣及び現場(階段上)に残された痕跡と整合しないという状況にある。》
そもそも被告の主張を裁判の判決が「自殺ストーリー」と表現すること自体、それに疑いを持っている印象が濃厚なのだが、顔などに出血の跡が残っていないことが自殺説の信ぴょう性を否定すると言い切っているのだ。
しかし、顔の左側の黒いものは、額から流れた血の跡であるようにも見える。弁護側は上告趣意書で、2審判決が出血の跡を見落としているのは明らかな誤りだと主張するようだ。それが明らかになれば、2審判決は根底から覆るという。
本来、それが血の跡かそうでないのかが重要なポイントであれば、裁判で医師の証言を得て、徹底的に審理すればよいと思うのだが、実はそういう議論はなされておらず、弁護側によれば、裁判所が判決でその理屈を持ち出したのは「不意打ち」なのだという。判決でそういう認定がなされたために、弁護側は元の鮮明な写真を独自に入手し、それが血の跡だと確信を得たというのだが、裁判の進め方そのものに疑問を抱かせる話だ。
そういう例は、ほかにもある。例えば朴被告が妻ともみ合いになった後、幼い二男を抱いて避難したという2階の子ども部屋のドアもそうだ。写真で示したように、警察はそのドアごとはずして押収していったのだが、そこに包丁の跡がついていれば、朴さんの証言を裏付けるひとつの根拠になる。弁護側はその鑑定結果を証拠提出したのだが、裁判所はそれを無視しているという。
知れば知るほど、そういう審理で夫が妻を殺害したという重大な認定が行われてしまってよいものかという疑念が拭えないのだが、事件現場で何が起きていたのか、公判で主張された自殺説・他殺説両方の概要を説明しておこう。
その夜、自宅で何があったのか
佳菜子さんが亡くなるという事件があった2016年8月9日未明、朴さんは午前1時過ぎに帰宅した。昼頃出社してマンガ家からの原稿を受け取り、入稿する作業を深夜まで行い、明け方に帰宅するのが通常の生活だったが、その日は気になったので早く帰宅したのだという。
夜7時過ぎに電話で話した時の妻の様子が、泣きながら話すような感じでいつもと違っていたからだ。その前には「夕飯作れる気がしない」といった、追い詰められた様子を示すメールも届いていた。
帰宅後、2階のリビングに行くと、妻の様子が変で、右手に包丁を持っており、「お前が死ぬか私が死ぬか選んで」と言われたという。夫を「お前」と呼ぶこと自体普段あり得ないので、異様さに驚き、「話をしよう」と言って、妻の手から包丁を取り除こうとした。しかし妻の手は包丁を強く握りしめており、立ったまま2人はもみ合いになった。
その後、妻は「へえ、死にたくないんだ。じゃあ、○○(二男)殺して私死ぬわ」とつぶやいて1階の寝室に降りて行った。夫はその後を追って寝室へ駆け寄り、妻を突き飛ばした。そして、包丁が手を離れたのを見て、倒れた彼女に覆いかぶさった。
うつぶせに抑えられた妻は、頭をそらすようにして夫に頭突きをして抵抗した。そのもみ合いの最中、妻の頭を押さえようとして夫は、右手を彼女の首の下にねじ込んだ。
以上、妻が幼い子どもを殺して自分も死ぬと言ったことなどは、朴さんの証言に基づくものといっても、妻の家族からすると辛いものだろう。本来、逮捕事件にならず終わっていたら、公開されなくてすんだプライバシーだ。ただ、現状では、現場のディティールがわからないと、裁判の争点も理解できない。ここでは、あくまでも法廷で朴さんが証言した内容だと断ったうえで話を続けたい。
寝室でのもみ合いの末に、朴さんは、妻が落ち着いてきたので体を離した、と証言している。でも、その時、佳菜子さんは首を圧迫されて失禁しており、検察の「他殺説」では、現場の尿班などをもとに、ここで朴さんが妻を殺害したことになっている。ただ朴さんの証言ではそうではなく、佳菜子さんは再び起きてきたというから、一時的に気絶したような状態だったのかもしれない。
朴さんの話によると、夫婦がもみ合っている間、生後10カ月の二男は激しく泣き出し、彼はその子を抱いて、2階へ避難した。二男を抱いた彼の目に、妻が再び包丁を手にしたのが見えたからだ。
そして子ども部屋に入って、ドアを背にして座り込み、妻が入ってこられないようにした。前号の朴さんの母親のインタビューで語られたように、その部屋には上の子どもたち3人が寝ており、長女などは父親の様子を目撃していたという。
2階のドアの傷を裁判所が無視する不思議
ドアは外側に包丁を突き当てた跡が12カ所残っていたというから、朴さんの証言を裏付けるように思えるのだが、裁判所は証拠採用したものの、それを無視しているという。
その後、2階に避難した朴さんの耳に、しばらくすると階段の方からの「ドドドン」という音が二度以上聞こえたという。しばらくしてドアの向こうが静かになったと思い、朴さんが子ども部屋から出て寝室へ行こうとすると、佳菜子さんは、階段の手すりに巻きつけたジャケットを使って、自殺していたという。
以上が朴被告の主張する話だ。検察側の他殺説では、朴さんは寝室で妻を殺害し、それを隠ぺいするために、脳死状態の妻を階段の上から突き落としたということになっている。
自殺説、他殺説、問題はそれぞれ現場に残された痕跡と照合ないし矛盾がどのくらいあるかということだと思うが、裁判ではそれを争点として議論がなされておらず、判決でいきなりそれを持ち出すという「不意打ち」がなされているというのが弁護側の主張だ。 ちなみに裁判では、解剖医のほかに検察側、弁護側双方の医師が証言を行っている。
いずれにせよ客観的に見ると、決定的な証拠と思われるようなものは存在せず、こういう審理で朴さんが妻殺しという殺人犯にされてしまうのかという疑問は拭いきれない。
最後に、この間、公正な裁判を求めて署名運動を展開している「朴鐘顕くんを支援する会」の佐野大輔さんのコメントを紹介しよう。
「今回の事件については、裁判において解明出来ていない部分が多過ぎます。
額の傷は、いつどのような状況で出来て、どうやって血が顔をつたうような状況に至ったのか? ドアの傷は、いつどのような状況で出来たのか?
1審や2審の判決では、不確実な根拠で検察の主張を支持する一方、こういった、被告の主張では説明出来るようなことが、一切説明されていないのです。
最高裁、あるいは、その後の差し戻し審において、より公平な審議が行われることを私たちは切望しており、そのための署名活動を行っています」
この会は昨年、朴被告の大学の友人らが立ち上げたもので、署名を集めるなど精力的な活動を展開している。会のホームページなどは下記だが、なかなか充実したもので、そこには判決文や裁判資料などが公開されている。興味のある人は読み込んでみてほしい。