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【戦国こぼれ話】織田信長は劒神社とゆかりがあったが、平氏の末裔という話は嘘だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長が平氏の末裔という話は嘘だった。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 12月14日、織田氏ゆかりの劒神社社務所が炎上した。非常に残念である。

 ところで、織田信長は劒神社とゆかりがあったが、平氏の末裔という話は嘘だったという話をご存じだろうか。

■劒神社とは

 劒神社(福井県越前町)は、神功皇后摂政13年の創建といわれている。

 祭神は素盞嗚大神、気比大神、忍熊大神で、旧国幣小社だった。梵鐘は、国宝に指定されている。

 越前国の二宮でもあり、織田信長が氏神と崇敬したので、「織田明神」とも呼ばれる。

 「劒神社文書」はこの地域の中世史を研究をするうえでの基本史料で、信長の古文書も含まれている。

 注目すべきは、天正3年(1575)の「柴田勝家諸役免許状」に「当社之儀者殿様(=信長)御氏神之儀」と書かれていることだ。

 勝家をしてさえ、劔神社が織田信長の氏神として認識しているので、信長自身が当地を祖先の出身地と考えていたのは明らかだろう。

■織田家は平氏の末裔だった!?

 『織田系図』(『続群書類従』第六輯・上)、『系図纂要』所収の「織田系図」などの系図によると、織田家の先祖が平資盛(清盛の孫、重盛の次男)になっていることに気付く。

 織田家の先祖が平氏であるというのは、これらの系図に書かれていたのだ。

 では、具体的にどのようなことが書かれているのか、その概要を書いておこう。

■織田家の直接の先祖は平資盛!?

 元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いで、資盛が亡くなった。資盛には寵妾がおり、その間に親真という子がいた。

 親真は母とともに近江津田郷(滋賀県近江八幡市)に逃れ、母は豪族と結婚した。

 あるとき、越前織田荘(福井県越前町)の神官が親真のもとを訪れ、養子としてもらい受けた。

 その後、親真は神職を継いで、織田家の祖となったというのだ。

 のちに織田家の子孫は、越前や尾張などの守護だった斯波氏に仕え、守護代を務めたのだから、話の辻褄は合う。

 なお、信長は親真の17代目の子孫であるといわれている。

■すでに流布していた平氏出自の説

 『織田系図』や『系図纂要』は、近世に作成された系図であるが、信長の時代には織田家の先祖が平氏だったという説が流布していた。

 僧侶の兎庵が記録した『美濃路紀行』には、天正元年(1573)9月に岐阜を訪れた記録がある。

 そこには信長の家系について、次のように書かれている。

 源氏(室町将軍・足利義昭)の権勢もだんだん衰える時期が到来した。天下に信長公になびかない草木がないありさまは、先代にもその例を聞いたことがない。

 織田家の本系を探ってみると、平重盛の次男(資盛)の後胤なので、暑往寒来(暑さが去って寒さが来る)のが当然のことのように、今400年の昔にさかのぼって、平氏が再び栄える世になると思う。

■平氏出自説は誤り

 この記述内容から、信長が隆盛を極めつつあった同時代においても、織田家の祖が平資盛だったという認識が認められる。

 これは、信長が意図的に流したものなのか、今となってはわかっていない。

 現時点で、この記述は当時におけるただの噂に過ぎないと考えられている。

 したがって、織田家の先祖が平氏であったという説は、誤りとして退けられている。

■まとめ

 実は、織田家の本姓が「藤原」であることは、すでに明らかにされている。

 織田家が平氏を出自とする一次史料はなく、信長が意図的に自称したのは明らかである。

 よく源平交代説(源氏と平氏が交代して政権を担うという説)が引き合いに出されるが、信長の時代に源平交代説があったとは考えられないのが現状だ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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