【深掘り「どうする家康」】松平元康が「家康」に改名した最大の決め手とは
大河ドラマ「どうする家康」では、松平元康が「家康」に改名していた。元康が改名した理由について、深掘りすることにしよう。
当時の人々の名前は、実に複雑である。幼い頃に幼名(松平元康の場合は竹千代)を名乗り、やがて仮名(けみょう:同じく二郎三郎)、諱(いみな:同じく元信)を与えられる。
諱とは、下の名前(実名:じつみょう)のことである。元服した際に諱を名乗るが、その際は仕えていた主人の諱の1文字を与えられることが多い。主人と家臣の紐帯を強めるためだ。
大河ドラマで描かれているように、元康は今川義元のもとで人質になっていた。天文24年(1555)に元康が元服した際、義元の「元」の字を与えられ、最初は元信と名乗ったのである。
弘治3年(1557)1月、元信は元康と改名した(『落穂集』など)。「康」の字は、祖父・清康の名から取ったものである。とはいえ、時期については、『落穂集』などの二次史料に書かれたものなので、信頼性が劣るといえよう。
たしかな史料上での改名の時期は、弘治3年(1557)5月から永禄元年(1558)7月の間だったと推定される。同時に元康は、今川家の家臣・関口氏純の娘・瀬名を妻とした。こうして元康は、今川家の配下に完全に組み込まれたのだ。
ところが永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで義元が織田信長に敗れ、あっけなく戦死した。その後、元康は今川、織田のいずれに与するか熟慮し、織田を選んだ。こうして元康は、織田と同盟して、今川氏と戦ったのである。
さらに永禄6年(1563)7月、元康は名を家康と改めた。そもそも元康の「元」の字は、今川義元の偏諱を与えられたものである。改名は、今川氏との関係を絶つという決意を広くアピールし、同時に今川氏との対決姿勢を知らしめる効果があった。
なお、元康が家康の「家」の字を選んだ理由は明らかではない。一説によると、久松俊勝(元康の母・於大の方の再婚相手)の旧名「長家」の「家」の字を選んだというが、根拠不詳で説得力に欠ける。「家」の字を選んだ理由は、今後の課題だろう。