野球から洋服の世界へ、そして不惑を越えた今「野球に戻る」 元阪神・山本幸正さん
この時期のプロ野球は、今季の日本一をかけて戦うチームと、来季へ向けて動くチームの2種類に分かれています。その来季を担う新人選手が17日のドラフト会議で決まり、一方では来季の構想から外れる選手も続々と…。そんな悲喜こもごもの秋を、わずか3年の間に味わった選手がいました。
東京・堀越高から1992年のドラフト5位で阪神に入団、一度も実戦登板がないまま1995年に退団した、山本幸正投手です。
堀越といえば1986年の阪神ドラフト1位・猪俣隆投手(法政大学卒)、また山本投手の1つ上で野村克則選手(明治大卒)、1つ下で井端弘和選手(亜細亜大卒)がプロ入りしました。山本さんは1974年8月3日生まれで、現在45歳。『山本幸正』で検索すると、すぐに『松井秀喜』が出てきます。
高校野球好きな方なら、山本投手が1992年の選抜高校野球大会1回戦で、のちに阪神で同僚となる村野工業高の安達智次郎投手と投げ合って勝利。2回戦では星陵高と対戦して注目の松井選手を途中まで抑えながら、4打席目にホームランを打たれて試合も負けてしまった…という記事を覚えていらっしゃるでしょう。
その年のドラフトで阪神に入団したのは1位・安達智次郎投手(村野工高)、2位・竹内昌也等投手(NTT東北)、3位・米村和樹投手(熊本商大付高)、4位・片山大樹捕手(徳山商高)、5位・山本幸正投手(堀越学園高)、6位・塩谷和彦捕手(神港学園高)、7位・山下和輝外野手(プリンスホテル)、8位・豊原哲也(小倉東高)で、8人中6人が高校生でした。
山本さんの退団後は、すぐ近くに住んでいた時期もあったのに一度偶然会っただけ。それから約20年の時を経てSNSでつながったのが久々の接点です。そして、ことし6月に「長年勤めてきた会社を退職し、残りの人生で野球に貢献すべく、投手専門の野球教室を開講する予定です」というメッセージが!ちょうど東京滞在中だった夏の盛りに、調布市仙川町の自宅へ伺いました。約3時間に渡って過去から現在、未来へのお話を聞いてきたのでご紹介します。
痛みと不安を抱えた3年間
プロ野球の世界に足を踏み入れたものの、山本さんは1軍だけでなくファームの公式戦も、それどころか練習試合や紅白戦ですら、実戦登板が一度もないまま退団に至ったという稀なケースです。それは高校時代から抱えていた右ヒジの故障によるもの。阪神時代のことを本人のコメントで振り返ってもらいましょう。
「阪神にいた3年間のうち半分は病院通い。僕は何をやっているんだろうって思いましたね。ずっとリハビリで、選手の動き方をしていなかったから。怪我で鳴尾浜へ来ていた先輩方と一緒にリハビリをして、早く終わると須磨の海岸へ日焼けしに行っていたのを覚えています。それがすごくいい思い出ですね。先輩といろんな話もしたし」
「右ヒジの手術は全部で3回。まず高校の時に軟骨除去手術をやって、プロ1年目が2回目、じん帯移植です。この時は足から腱を取ってヒジに移植しましたが、リハビリをして投げられるところまでいったものの、ブルペンで投げた時にブチって切れちゃったんです」
「それで3回目の手術はジョーブ博士と同じように腕から腱を取ってのじん帯移植。でも痛みがなかなか取れない。ストレッチなどを繰り返して緩和した気になるけど、実際に投げてみると痛い。だから、ずっとこのままなのか…という不安を持ちながらやっていましたね」
「ファームでも試合に投げていないし、ちょっと厳しいだろうなっていうのは自分でわかっていたので、3年目の後半にもう覚悟は決めていました。周囲から期待もされていて、それに応えないといけない意識は持っているけど、ヒジが痛い…これ、どうしようもないなあと。当時、同じ故障組にいたオマリーから、覚えた日本語で『オマエ、ケイヤクキンドロボー』って、よく言われました(笑)」
3年目、1995年の10月に戦力外通告を受けて、現役引退を決めたと言います。「野手転向の話もあったんですけど、やっぱりヒジが痛くて…。バットを振るのも痛いほどだったので、現実的にもう無理だなと思いました。野球を辞めるしかないなと」
洋服への思いが募っていった日々
当時の虎風荘寮長・梅本正之さんから、退団後の就職先にとスポーツ医療品の卸会社を紹介されました。そこで営業の仕事をしながら「高校時代も休みの日は洋服屋回りをしていたし、阪神在籍時も給料のほとんどを洋服とCDにつぎ込むくらい、もともと洋服がメチャクチャ好きだった」という山本さんの気持ちが、少しずつ洋服の方へと傾いていきます。
その頃よく通っていたセレクトショップの1つ、ユナイテッドアローズでまずアルバイトから始めることになりました。面接でこんなことを言ったそうです。
「野球の世界で生きてきて、そこそこ活躍もすると周りからチヤホヤされる。タイガースに入って、自分はすごい年下なのに新聞記者の中でも敬語を使ってくる人がいて。『これは感覚がおかしくなるよな、天狗になっちゃうよな』と思っていました。それで逆をやりたい、もてなす側に回りたいという願望がすごくあったんです。洋服というツールを利用して人を喜ばせる仕事がやりたかった」
それから平日は会社勤め、土日はアルバイトの生活。「7か月間、いっさい休んでいません。体力もあったし、楽しかった!ユナイテッドアローズというブランドで働いている自分にステータスを感じて、いらっしゃいませと言うのも満足感があった。洋服だけでなく、接客も好きだったんだと思います。自分のファンを作る、お客様と会話をする、その行為がすごく楽しかった」
やがて1996年の8月でスポーツ医療品の会社を辞め、1年間のアルバイトを経て1997年2月から株式会社ユナイテッドアローズの正社員に。新しくできた御堂筋店へ移って2年後、初めて店長になったのが28歳という早い昇格です。でも原宿本店がリニューアルする際、店長の立場にもかかわらず「チャレンジしたい」と公募に手を挙げ、副店長として異動。約10年ぶりに東京へ戻りました。
東京勤務でもあちこちの店舗を経験し、そのあと本社へ異動となって販売部に所属。お店のサポート、メンバーの採用や教育、デベロッパーとの対応と仕事内容は多岐に渡りました。北海道から福岡まで全国の店舗だけでなく、台湾にも2か月に一度くらい行って、イメージとしては“お店の健康診断”をする仕事でしょうか。
「販売員や店長といった店舗の生活は24年間のうち半分。そして本部にいたのが半分。本部での前半はスーパーバイザーという仕事ですが、後半は副部長になって今度はスーパーバイザーを取りまとめる役割になりました。店舗の巡回をしているスーパーバイザーのレポートを聞くわけです。だからもう完全に野球の世界とは違いますね」
ところが、まったく違うと思っていた2つは、その根っこの部分でつながっていました。
洋服と同じく、大切で大好きな野球
「去年7月から9月までの3か月間、単発の副業を会社に申請したんです。この期間に野球の指導者や野球塾を、経験としてやっておこうと思って。それが通ったので知人に生徒さんを紹介してもらったら何人か申し出があり、やれそうだなと感じました。もっと前の話をすると、洋服の世界でやってきて40歳を越え、ずっと洋服の仕事をやっていこうとは思っていなかったんです。ゆくゆくは野球の指導者をやりたかった」
少し意外な言葉でした。20年以上も務めてきて、それなりの地位もやりがいも得たであろう時期に?と。でも山本さんはこう続けたのです。
「野球に戻ろうという思い。野球で育って、野球に恩返したいと思いました。野球に戻りたかった。洋服が嫌だったわけじゃありません。洋服と野球ってのは僕の中で大好きな、大切な2つだからです」
「幼少期から野球で育って野球で社会に出て、そこから洋服へ来たけど野球で培ったことがすごく活きました。この経験って他の人にはなかなかない、僕の財産だなと思います。野球で培ったノウハウや考え方は社会で思いっきり通用するよってことを、野球に恩返しする中で伝えていきたいと思ったんです」
その思いを実現するあたり、動き始めたのが昨年の夏だったわけですね。副業を許可された段階で始めた指導に手応えは?「ありました。イメージしているよりも好感触だったのが、さらに加速した理由です。それから、この期間に指導者としての資格(学生野球資格回復制度によるもの)も取らないといけないなと思って、昨年12月に行きました。小、中学生はいいけど高校生の指導には資格回復が必要なので」
「始めるのは50歳を過ぎてからだなと考えていましたが、多少早くてもいいなと思えたのはNPBの指導者資格を取ったことも大きかった。それまでは忙しくて他のことをする余裕もなかったけど、部署が変わったことで余裕ができたからというのはありますね」
もと阪神のピッチャーで同僚だった井上貴朗さん(佐倉高から1993年ドラフトの5位で入団、のちにロッテ)や、山村宏樹さん(甲府工高から1994年のドラフト1位で入団、のちに近鉄、楽天)も、NPB公認指導者として高校野球の外部コーチも引き受けていると聞きました。2人とは退団後も親交があり、また井上さんは西宮市在住で『野球教室ワンステップ』を開講していますし、今回はいろいろと相談に乗ってもらったそうです。
投手専門の個人野球教室
アルバイトから数えて24年も務めた会社だけに、引き留められたでしょう?「辞める時、みんな驚いていましたね。昨年末に一応伝えたんですけど、ちょっと考えてみたら?と慰留もされた。でも、少しタイミングが早まったけど『最終的には野球に恩返しがしたい』という思いを告げたら、みんな喜んでくれました。応援したいって。社長も、コラボレートできることがあれば何でも言ってくれと」
そんな温かい後押しもあって、ことし3月末で退社。いろんな準備に4か月くらい必要と考えて正式スタートを8月と定めました。「野球の勉強も必要なので、お金を払って“投手に必要なトレーニングとは何か”という内容の講習会にも行ったし、指導ラインナップの内容を決める教科書作りを4か月かけてやった」
外国では当たり前のように存在するパーソナルトレーナー。山本さんは「日本でも勉学では塾があるのに、野球などでそういうのがないのは少し古いのかなって思いますね。子どもたちに聞いたらリトルリーグやシニアリーグに属していても、別で個人の指導者がいたと言います。僕も実はそうでした。チームメイトだった子のお父さんが社会人野球の選手で、その人にフォームとか全部教えてもらった」と振り返ります。
だからこそやりたかったという“投手専門の個人野球教室”。名前はパーソナルピッチングクリニック、『PPC』としました。
実は山本さんが購入したマンションの造りも、個人指導をするにあたって大事な役割を果たします。夏にお邪魔したマンションの部屋は1階で、その地下になんとフリースペースが!
「買うきっかけとしては、これが大きかったですね。本当にたまたまなんですけど、2年半前に偶然立ち寄った仙川駅前で看板を見て、ちょっと時間があるから見に行ってみようかと。空き部屋は4つあって、ここだけが地下のある部屋でした」
その時はもう野球教室のことが頭にあった?「やりたいな、と思っていました。野球指導者はいつか絶対にやろうと決めていた。不動産屋さんに『ここでこういうの、できますよね?』と冗談めいた聞き方をしたら『そういうことに使ってください!』と乗ってきてくださって、逆にひらめきました。自宅の地下でフォームチェックできます!って、いいなあと」。自宅でマンツーマン指導なんて、あまりないでしょうね。ピアノ教室みたいな感覚です。
この部屋には生徒だけでなく、親御さんも一緒に入って見学できるソファーがあり、実際に目の前で見られて親御さんも納得されている様子だとか。また「気になることをその場で聞いてもらえるので、こちらも嬉しい」と山本さんは言います。
徹底した投手のための指導
指導プランは、個人で行うマンツーマン指導がメインで、そのほかに臨時コーチ、特別講演、非常勤コーチの計4つがあります。それぞれの説明をしてもらいました。
「マンツーマン指導は、まず先方から指定された場所、たとえば普段練習しているグラウンドや公園などに出向いて、そこで見た上でフォームを固めるため自宅マンション地下の部屋へ来てもらいます。遠くに投げるより、近くでネットピッチングをして固めませんかということですね。外、中、外、中と繰り返して行動計画書をもとに1年間でできたことを親御さんにプレゼンします」
正式スタートはことし8月ですが、昨年7月から何人か生徒さんを受け入れてやっていて「昨年は知り合いのみで本格的ではないため、ことし夏からのスタートとし、その子たちも全員継続していただきました。また正式開講後はインスタを見ての問い合わせが増えたし、指導を受けた方からの紹介で想像もしなかったオファーがあったり。それが嬉しいですね」
臨時コーチは少年野球でリトルリーグ、シニアリーグのチームからオファーを受けて丸一日、臨時でコーチをやるというチーム向けのプランです。少年野球2チームからオファーを受けて、今も継続中だそうです。特別講演は山本さんいわく「同じ高校OBの野村克則さんとか井端弘和とか、さらに同い年の井口資仁らとやっている『49年会』のメンバーなど、オフの時にできる範囲で話をしてもらうもの」で、これから本格化するでしょう。最後に非常勤コーチというのは高校向けで、正式開講前の1校に加え、現在2校と契約して実施中。これも投手専門で、練習における技術指導を行っています。
また指導サポートのコンテンツを2つ用意しているとのこと。「1つは基礎体力の測定。技術を教えるだけでなく、体力面に関しては基礎体力の測定もこちらでやります。ピッチャーに必要な、背筋力や握力を測って記録しておく。小学生で必要な握力などは数値化できているので、上げるためにはこういうトレーニングをと本人にも親御さんにも説明できます」
もう1つはボディチェック。生徒さんに話を聞くと過去に怪我をしている人が多いそうです。小学校で肘を痛めたとか、あとは左右でバランスが全然違うとか。「それを無視して指導することはできないので、専属のトレーナーと医師がいれば確認できる。僕は洋服の世界にいて道がなかったので知人から紹介してもらって、過去に実績のある専属ドクターやトレーナーのルートを確保しました」
共通する“マネージメント”
指導ラインナップには6つの項目があり、メンタルな部分の思考面や自己形成力面などは「スーパーバイザーに対してもやっていたので前の仕事に通じるものだし、伝えられるなと思ったのでコンテンツとして入れている」そうです。体力面、技術面、戦術面に関しても「基本的なことをわかって、それをどうやって運用していくかは会社にいる頃から同じだなと思っていましたね」と山本さん。「野球は特別という発想はあまりなくて、普通の会社でやっていることと野球で教えることって一緒だなという感覚です」
不思議ですね。つながっていくというか、つながっていたんですね。「ほんと、そうなんですよ。サラリーマンで教育やマネージマントをしていた僕が、野球の世界で生徒や選手たちをマネージメントすることも基本は同じだなと。物事があって、PDCAサイクルで回すという考え方が野球の世界で少なすぎるので、逆にそれをやりたいなという思いはあります」
PDCA?「plan(P)があって、do(D)があって、check(C)があって、action(A)があるという考え方です。こういうところを指導したから次のステップはここまで行きましょうと、書面に残すとかデータ化するのは重要なことだと思います。会社だと、それぞれの部門で専任がいる。専任者が自分の役割を果たし、それを上の人がマネージメントする。野球でもしかりでしょう?」
「いろんな人がいろんなことを言いすぎるのは選手ファーストじゃなくて、かわいそうだと思うんです。指導者は自分の仕事だから一生懸命だけど、その子にしたらキャパを越えてしまうかもしれない。言っている内容が全然違うケースと、逆に同じことを繰り返し言われているケースがあって、それは会社も一緒です。同じことを何度も言っていたら、時間も手間ももったいないですよね。あまり望ましいことじゃない。マネージメントをちゃんとしてあげないと」
「そういうことを、ちゃんと伝えられたらいいですね。特に思考面というコンテンツでは、野球だけやっていればいいですよって話じゃなくて、自分を理解して自分が抱えた問題を自分自身のプロセスで解決できるかどうか、みたいなことを習得できるレッスンになればいいかなと思っています」
「野球は人生の縮図」
久しぶりに戻った野球の世界で、まだまだ不足している知識がたくさんあるという山本さん。勉強のために小、中学校のクラブチームの監督さんや指導者の方々と会って話を聞いたり、練習風景を見させてもらったりしているそうです。そんな中で、これから自身がすべきことを再認識しました。
「投手指導をしながら、球界を盛り上げることも頭の中に浮かんできてしまいます。盛り上げるためにリニューアルしないと時代遅れになることがたくさんあるなと思って。各チームの指導者に話を聞いたりすればするほど、失礼ながら変わっていない野球事情を感じます。もちろん変えてはならない歴史を重んじる部分も必要ですけど、こんなに野球を好きな方々が多くいる今だからこそ、未来へ続けられる野球のあり方を考えるべきではないかと」
「それこそ私が野球界に戻った理由です。『野球界(人)の価値想像、野球界(人)の地位向上』のため、地道にやっていくことが野球への恩返しだと思います」
山本さんの話で一番印象に残っているのは「野球に戻りたかった」との思いと、そこで「野球をやっていたら、こんなに素晴らしいことがあるよ。野球っていろいろ覚えられるよ。学べるよ。人生の縮図だよって、みんなに伝えたかった」という言葉です。だからこそ「将来的に野球で活躍できるのは一握りだし、もちろん活躍してもらいたいけど、それ以外の道も踏まえて一緒に協力しますよ、という話が親御さんとできたらいいですね」とも言っていました。
教えている子どもたちのことや、指導プランについて話す山本さんは目をキラキラさせています。楽しそうに見えると言ったら「楽しいです!すごく不安定ですよ。でも楽しくて」と、25年前と変わらない顔。そして阪神在籍はわずか3年なのに、それから務めたユナイテッドアローズでの24年間も、ずっと阪神だったと笑います。
「僕、会社で“阪神”って呼ばれていたんですよ。昔からいる先輩には。女性の先輩からは“阪神くん”、後輩には“阪神さん”と。野球のイメージが強かったので。大阪の街中で『おい、阪神!』と呼ばれて、振り向いて返事するのがイヤでしたねえ(笑)」
“阪神くん”こと山本幸正さんが描く新たな夢は、今始まったばかりです。
<掲載写真のうち※印は山本さん提供、それ以外は筆者撮影>
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