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ダービー2勝目のベテランと初騎乗を果たした若い騎手。それぞれのダービー

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
ダービーのコントレイルと福永騎手(中央赤帽)と坂井騎手(白帽)(撮影:高橋由二)

ダービージョッキーが見事にダービーを制覇

 日本ダービー(G1、3歳、東京競馬場、芝2400メートル)をコントレイル(栗東・矢作芳人厩舎)が優勝した。デビューから5連勝でダービー馬となったコントレイルの手綱を取ったのは福永祐一。今年43歳。すでにベテランと呼ばれる域に達したジョッキーは同馬の5戦中4戦に騎乗。近三走のG1、すなわちホープフルS、皐月賞、ダービー全てでコンビを組んだ。自身はこれがダービー2勝目。一昨年にワグネリアンで悲願のダービー制覇を成し遂げて、わずか2年後にまたも金的を射止めてみせた。

撮影;高橋由二
撮影;高橋由二

 前回、ダービーを制した時、彼は「福永家悲願のダービー制覇」と語った。これは父の福永洋一も元ジョッキーだったため。洋一はデビュー3年目の1970年にリーディングジョッキーになると以降、78年までその座を明け渡さなかった。79年にレース中の落馬で大怪我をして引退を余儀なくされたが、当時は誰もが彼を“天才”と認めていた。しかし、そんな天才をしても日本ダービーだけは縁がなかった。2番人気馬で参戦した事もあった。逆にダークホースを3着に持ってきた事もあった。それでもとうとう最後まで先頭でゴールラインを切る事は出来なかったのだ。

 そんな父の代から挑み続けた東京優駿だが、息子もなかなか頂点を極められなかった。1番人気に支持された年もあった。2着した事もあった。5年前の2015年には今回と同じ矢作厩舎のリアルスティールで臨み2番人気に推されたが4着に敗れていた。

2015年、福永は今回と同じ矢作厩舎のリアルスティールでダービーに挑戦した
2015年、福永は今回と同じ矢作厩舎のリアルスティールでダービーに挑戦した

 ワグネリアンによる勝利は、自身19回目の騎乗での悲願達成だった。挑戦こそすれ長い間、勝てなかったため本人の心も揺らいでいたようで、初優勝直後には「父のディープインパクトはダービー馬だし、オーナーの金子さん(名義は金子真人ホールディングス)も、友道(康夫)調教師も皆、ダービーを勝っているのに自分だけ縁がなかったので、負ければ自分のせいだという変なプレッシャーがありました」と吐露していたものだ。

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 しかし、プレッシャーという意味では今回の方が何倍もあっただろう。ワグネリアンは5番人気での参戦。いわば挑む立場だったが、今回は単勝1・4倍の圧倒的1番人気。しかも皐月賞で半馬身差まで迫られたサリオスといった強力なライバルがいる状況。決して楽ではなかったはずだ。

プレッシャーのかかる中、ベテランらしい素晴らしい手綱捌きでコントレイルをダービー馬へと導く(撮影;高橋由二)
プレッシャーのかかる中、ベテランらしい素晴らしい手綱捌きでコントレイルをダービー馬へと導く(撮影;高橋由二)

22年前の初ダービー

 ところで福永祐一のダービーに於けるプレッシャーという意味で思い出されるのは1998年のそれだ。この時、コンビを組んだのはキングヘイロー。皐月賞2着馬で、2番人気に支持されていた。デビュー3年目の21歳でこれがダービー初騎乗となる福永にとっては大役。ゲートが開くと“逃げ”という戦法に出て、最後は後続に捉まると抵抗出来ずにズルズルと後退していった。

 「プレッシャーに潰されてしまいました。レース後『良い戦法だったんじゃない?』となぐさめてくれる人もいたけど、全くそんな事はありませんでした」

 そう語ってから22年。国内外で多くのビッグレースを制し、リーディングジョッキーの座にも輝いた。数々の経験が彼をひと回りもふた回りも大きくした。絶対値で言えば今回はキングヘイローの時よりも大きな重圧がかかったはずだが、おそらく本人はそうは感じなかったのではないだろうか。これを単に時間や経験で片付けるのは違うだろう。時間や経験でインプットしたものを実践でアウトプット出来るか否かは本人のたゆまぬ研究心と努力があってこそ。本人も昔から「自分は決して天才ではない」と語っていたように、様々なモノを糧にした上でのダービー制覇だったのだろう。

12年に長期滞在し、アメリカの競馬に参戦した時の福永
12年に長期滞在し、アメリカの競馬に参戦した時の福永

誕生日に自身初のダービー騎乗

 一方、今回がダービー初騎乗だったのが坂井瑠星だ。騎乗したサトノインプレッサは優勝したコントレイルと同じ矢作芳人厩舎の馬だが、こちらは単勝63・4倍のダークホース。前走のNHKマイルC(G1)は外枠で出足がつかず、終始外を回らされた上、先行馬決着ということもあり追い込み切れずに終わった。しかし、前々走の毎日杯(G3)では着差以上の楽勝で重賞を制覇していた。そんな潜在能力の片りんをのぞかせる走りをこの大一番で披露し、4着に善戦した。

坂井。18年、オーストラリアで撮影
坂井。18年、オーストラリアで撮影

 矢作厩舎所属の坂井はこの日が23回目の誕生日。父は大井競馬の元騎手で調教師の坂井英光。16年に藤田菜七子らと同期でデビュー。17年の秋から翌18年の秋までオーストラリアで単身修行。途中、矢作厩舎の遠征を手伝うためにドバイへ飛ぶなど、海外で経験を積んだ。

 競馬界に限らず日本は過剰なサービスや過干渉に慣れているせいか思考力や判断力、行動力にも悪影響を与えている感がある。それらの力を鍛える簡単な方法は海を飛び越える事だ。国境を越えての生活にベルトコンベヤーはない。否が応でも自ら考え、判断し、行動に移さなければならない。つまり海外修行は成熟への近道なのだ。自らも海外で馬と暮らした経験のある矢作はそのあたりを分かっているから弟子にも同じように旅をさせた。

18年、ドバイでの坂井と矢作
18年、ドバイでの坂井と矢作

 帰国後の昨年はノーワンで臨んだフィリーズレビューで重賞初制覇を飾るとその後、矢作が管理するドレッドノータスやサトノガーネットでも重賞を勝利。今年も交流重賞を勝った他、5月が終わらないうちに21勝をマーク。減量があったデビュー2年目に挙げた年間36勝を上回るペースで勝ち鞍を伸ばしている。そんな愛弟子に師匠から贈られたギフトが今回のダービー騎乗。折り合いをつけて最後は上々の末脚で追い上げての4着は果たして期待に応えた手綱捌きと言えたのではないか。初めてのダービー騎乗でこれだけ乗れれば将来が楽しみだ。「機会を与えていただいた関係者の皆様に感謝」と口を開いた坂井は次のように続けた。

 「無観客だったのは寂しいですが、騎手ルームもピリッとしてやはりダービーというのは特別だという雰囲気を感じる事が出来ました」

 そういった雰囲気に呑まれずに、初騎乗でこれだけやれたのは偶然ではなかった。前年のダービーデー、目黒記念に出走した自厩舎のチェスナットコートに乗るため、彼は東京競馬場にいた。ダービーの雰囲気を肌で感じていたのだ。また、まだ騎手候補生として厩舎実習をしていた15年にも府中にいたと言う。

 「リアルスティールがダービーに出た時も矢作先生に連れて行ってもらいました。本馬場入場をみて鳥肌が立ったのは忘れられません」

 ちなみにそのダービーが行われたのは5月31日。今年同様、坂井の誕生日だった。

 我々は同じ時代にいながらもそれぞれの時間を生きている。坂井の現在は今年のダービージョッキーの20年前と同じ時間なのかもしれない。中島みゆきさんの歌詞ではないが、時代はまわるし喜びや悲しみは繰り返す。坂井が福永のように努力を続ければ、明日のダービージョッキーとなれる可能性は充分にある。そう信じたい。

ダービーのパドックでの福永(赤帽)と坂井(右の白帽)。坂井がいずれ福永のようになれる事を祈りたい(撮影:高橋由二)
ダービーのパドックでの福永(赤帽)と坂井(右の白帽)。坂井がいずれ福永のようになれる事を祈りたい(撮影:高橋由二)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

※今回も電話による取材でした。ありがとうございました。

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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