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上甲監督による「高校野球で勝つための何百ものポイント」とは……

楊順行スポーツライター

「楊さん、なぁ……」

初対面のとき。私の名刺を確認しながら、そう話しかける。三人称ではなく、だれにでも固有名詞を用いるところがこの人の繊細さだった。たとえば同行したHカメラマンには、「Hさん、いまは、シャッターを押すだけで映るデジカメ全盛や。だれでも写真は撮れる。でもな、同じデジカメを使っても、Hさんが撮る写真と主婦が撮る写真じゃまるで違ごうてくる。そやろ。きちんと勉強して場数を踏んだのと、ただ単にシャッターを押すだけじゃ、な」

基本があってこその技術、という野球への比喩なのか。さらに私に向かっては、

「楊さん、僕には、高校野球で勝てるチームにするためのチェックポイントが何百とあるんよ。これを満たしていればいるほど、強いチーム」

ボールもバットもない時代、松山商に負け続けた

上甲正典。南予といわれる愛媛県三間町に生まれた。宇和島東から龍谷大を経て、社会人でも野球を続けたかったが、採用がなく断念。薬問屋に就職し、薬種商免許を取得した。宇和郡で薬店を営むかたわら、母校・宇和島東のコーチを務め、監督就任は82年8月。35歳になっていた。

「そのころの宇和島東いうたら、ボールはない、バットもない。母校(龍谷大)にねだりに行ったくらいです。そんなですから、(松山)商業には勝てるわけはないわね」

84、86年夏と、愛媛県の決勝に進出したが、いずれも名門・松山商に屈した。85年夏も初戦で当たって敗れており、宇和島東の前身・宇和島中の時代から、これで松山商との夏の対戦では18連敗である。

松山と宇和島は、同じ愛媛県とはいえ気質も、文化もかなり異なる。江戸時代の松山は、松平氏の城下として親藩だったのに対し、仙台から伊達氏が移封してきた宇和島は、逃亡中の高野長英をかくまい、当代きってのインテリ・村田蔵六を迎えるなど、開明的な藩として知られていた。松山とのライバル意識は、強い。

ただ野球では、現在まで夏の甲子園で5回優勝している夏将軍・松山商を擁し、殿堂入りした野球好きの俳人・正岡子規の故郷を看板にする松山のほうがどうしても旗色がいい。そこへもってきて、2回続けて松山商に決勝で負けるのだから、南予の人・上甲がおもしろいはずはない。そこで、考えた。松山商といえば、守り重視の野球だ。そして、よくもわるくもセオリーに忠実。たとえば同じ南予の人、馬淵史郎・明徳義塾監督によると「ピッチャーが追い込んだら、決まって外にはずし、内にボール、そして外にスライダー。だけど、2ストライクノーボールから盗塁させれば必ずセーフ。ハナから、走ってこんもんと決めているからの。それが愛媛の、松山商の野球」らしい。

「そういう松山商と同じ土俵でやっては、絶対に勝てん、と思った。相手が守りの野球をするなら、攻撃野球で行くしかないやろ。それと、決勝まで行ったら体力勝負なんよね。それからかな、ウエートトレーニングを採り入れたのは。全国的にも、早いほうだと思いますよ」

と上甲は、パワーを求めた。宇和島東には、全国レベルのボート部があり、ウエイトトレーニングを導入していた。そこに目をつけた上甲は、野球部の指導も頼みこみ、ボート漕ぎ用のトレーニング器具に似たものをチューブでつくる。タイヤ引きや、砂袋を手で巻き上げるなどの工夫もこらした。その成果が現れたのが、87年夏。160センチそこそこの小柄な選手が県大会で4ホーマーを放つなど、「僕自身も驚いた」(上甲)ほどの力強さを見せ、春夏通じて初めての甲子園キップを手に入れるのだ。ちなみにローイングマシンは、のち済美グラウンドのトレーニング室にも常設してあった。

87年夏の甲子園初出場時は初戦で敗れたが、子どもが大好きな田舎の村長さんのような上甲スマイルが日本中に浸透するまで、そう長くはかからなかった。翌88年のセンバツ。地元のお祭りになぞらえ、”牛鬼打線“と称された宇和島東は、5試合で34点というパワーを見せつけて、いきなり頂点に立つのである。

打ったらニコニコ、本心はともかく、ミスしてもニコニコ。失敗してもいいから、とにかく攻めろ! の上甲野球は、あの蔦文也にだぶらせて愛媛の攻めダルマと呼ばれた。まだ無名の指導者だったころ、箕島・尾藤公監督からいわれた言葉が耳に残っている。上甲よ、スポーツは本来楽しくやるものよ……。「監督が怖い顔していたら、選手も気が休まらん。自分が笑っていることで、少しでものびのびプレーできればと、笑顔で接することにした。それがいつの間にか、上甲スマイルと呼ばれるようになって……」。ただし選手たちには、顔は笑っていても怒っているのが見え見えだったのだが。

あなたから野球をとったらなにが残るの……夫人の遺言

春夏合計11回甲子園に導いた宇和島東の監督を退いたのは、01年6月のことだった。薬店を切り盛りしていた節子夫人をガンで失い、「店をとるか、野球をとるか、ふたつにひとつ」の苦境に立たされる。迷いに迷い、ぜひ新しく創部する野球部の監督に、と口説かれていた済美行きを決めたのはその年8月も末のことだ。「あなたから野球をとったら、なにが残るの」という節子夫人の声が後押ししたのだろう。そして創部丸2年の04年センバツ、節子夫人が闘病中にかぶっていたというバンダナをポケットにしのばせ、史上初めての2回目の初出場優勝(ややこしい)を決めた。

「済美に移ってからは、まだ海のものとも山のものともつかないチームなのに、馬淵君が快く練習試合を受けてくれた。最初はそりゃ、試合になりません。20対ナンボとかでよく負けていたね。それでも、明徳にとっては実にもなにもならないだろうが、こっちにとっては大いに勉強になったね。馬淵君には、足を向けて眠れんわ」

かつて馬淵監督と対談していただいたときの言葉である。

その年は、駒大苫小牧に敗れたものの春夏連覇寸前の準優勝、さらに13年春には、安楽智大を擁してまたも準優勝。甲子園では、通算25勝を記録した。上甲はかつて、こんなふうにいっていたものである。

「高校生の指導では、薬局を営んでいたことが一番役に立っているね。たとえば同じ頭痛薬でも、その人に効く薬とそうでない薬がある。そこでどうするかというと、問診なんよ。僕ら医者やないけん、打診も触診もできないけど、問診はできる。問診で話しながら、頭のなかのコンピューターでこの人に合う薬を考えるわけです。そういうんで、選手に対する感性が養われたところはあるね」

松山は、松山商が絶対の土地柄である。だから宇和島東時代の上甲は仇役で、済美に移ってからもそうだった。松山では、宇和島東在学中に野球部のマネジャーだった長女・夕美枝さんと移り住んだのだが、2人で食事に出るだけで「上甲は、若い女とメシ食っとった」とたちまちウワサになったという。笑いながらそんな話をした上甲に、冒頭の何百ものチェックポイントについて、それとなく探りを入れてみた。

「内容? そんなもん、いえるかい」

どうも、その笑顔にははぐらかされる。

その上甲がさる2日、この世を去った。昨年、安楽の投球数過多論争が起きたあとに取材した知人によると、「Eさん、投げすぎはわかっていても、本人が決勝で"投げたい"というてきたら、Eさんはどうする?」と、真顔で問われたという。

「楊さんなぁ……」

もう、あの口調を耳にすることはない。合掌。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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