Yahoo!ニュース

「楽しい」は苦しい時を乗り切る原動力

羽田野健技能五輪選手強化心理アドバイザー/公認心理師/合同会社ネス
藤次郎のオープンファクトリー。著者撮影。

藤次郎の包丁。

初めてでもすぐ手に馴染み、適度な刃の重さを感じ、刀身は光を反射して輝きます。

自宅にあったネギ、大根、人参を切ったところ、スッと刃が入り、特に野菜の下半分からまな板まで刃を落とす過程で、他の包丁なら力が必要なのに、藤次郎の包丁は重みで刃が自然とまな板まで落ち、力をほとんどいれる必要がありませんでした。また、しばらく冷蔵庫に入れたままだった野菜の断面は水々しく、光の影響もあるのでしょうが、輝いて見えました。「また使いたい」という気持ちが生まれました。

ここまでのものづくりを実現する技能。その技能を磨く道のりはいったいどんなものなのかに興味があり、お話を伺いにいきました。

当初わたしは、その道のりはけっして平坦ではなく、苦しく辛い経験をいくつも乗りこえるものと想像していました。しかし、むしろ「楽しむ」「心にゆとりを持つ」「チャレンジし失敗する」ということが大事だ、ということでした。特に「楽しむ」は、苦しいときに戻る原点であり、かつても今も前進の原動力だ、ということでした。

これは意外だったのと同時に、とても理にかなっていると感じました。以下では、その理由をポジティブ心理学の視点から考えてみたいと思います。

「楽しむ」がもつ心理学的な効果

「楽しむ」は、感情の分類ではポジティブ感情の一つです。ポジティブ感情には、いくつかの効果があります。

1つは、視野を広げ、新しい考えを生み出すということです。

例えばゲームや趣味で「楽しい」と感じると、「もっとやりたい」「もっとできるようになりたい」「もっと知りたい」などの動機が生まれます。次第に、今まで見ていなかったやり方にも目が向き始めます。そしていつの間にか知識が増え、スキルが上がっていたりします。

これは「拡張-形成理論」という理論と呼ばれます(参考資料2、3)。ポジティブ感情が知識やスキルなどの拡張や新しい自分を形成していく原動力となるのです。

例えば、元任天堂の社長の岩田聡さんは、ご自身がゲーム開発を行うようになったきっかけとして、高校生のころに趣味で作ったゲームを同級生が喜んでくれたエピソードをあげ、「人間やっぱり、自分のやったことをほめてくれたりよろこんでくれたりする人がいないと、木に登らないと思うんです。ですから、高校時代に彼と出会ったことは、わたしの人生にすごくいい影響を与えていると思いますね」(図1)と述べています。そしてこのサイクルを「ご褒美発見回路」と呼んでいます(参考資料1)。

図1.参考資料1のP18より、著者作成
図1.参考資料1のP18より、著者作成

もう1つは、人間関係を豊かにするということです。

感情を進化の視点から見た場合、ポジティブ感情は、人と人が仲良くなり、みんなで何かをやる上で重要な役割をはたしたと言われています。例えば楽しそうな人と一緒にいるとこちらも楽しくなります。また、感謝は人を助ける行動を促すと言われます。

例えば、一見すると辛いことを楽しそうにやっている先輩や上司がいると、その「楽しそう」感が伝わってきて、「自分もやってみようかな」と思うことがあります。私はこの効果を実感したことがあり、働きたくないと思っていた学生時代に、「働くことも悪くないのかもしれない」と思えたのは、楽しそうに仕事の話をする社会人経験者の方々を見たからでした。

このように、「楽しむ」ことは、モチベーションを高め、知識やスキルの習得を促し、人間関係を豊かにする効果があります。

身近にある「楽しみの原点」

しかし、「楽しむ」ことが簡単ではないこともあります。

例えば、技能を磨く道のりで必ず訪れる上達の頭打ちです。また、自分は少しずつ伸びていても、周りがそれ以上のスピードで伸びていると、やはり「上達しない」と感じてしまうこともあります。こうすると、負のスパイラルにおちいってしまいます。

苦しいときに「楽しむ」ことや「心にゆとりをもつ」ことは思い出しにくいものです。そんなとき、少しの時間や手間でもできる趣味や活動など、立ち戻れる「楽しみの原点」があると、楽しみを感じやすくなります。それは好きなゲーム、音楽、動画、運動、食べ物など、なんでも構いません。あるいは、気のおけない仲間と過ごしたり、誰かに「ありがとう」と言ってみるだけでもいいかもしれません。

楽しい気持ちが生まれると、拡張-形成理論の効果で「注意の切り替わり」が起こったり、「心のゆとり」が生まれたりして、負のスパイラルから抜けるきっかけになります。また、視野が拡がり、仕事で「上手くいかない」と感じていたことにも「実はこうやったらいいんじゃないか?」というようなヒントが思い浮かぶこともあるかもしれません。

まとめ

その道を極める人をイメージすると、辛く苦しい努力や、そこから目をそむけないストイックさなどが思い浮かびますし、実際そういう面もあるのでしょう。しかし実際には何かを楽しみ笑顔になっている時間もあるのでしょうし、そうでなければ道を極めることはできないのかもしれません。

苦しいときに立ち戻れる「楽しみの原点」があること。それは新しいことを覚えたり、できなかったことが出来るようになったと感じたときのことでもいいですし、誰かがよろこんでくれたことでもいいと思います。原点があり、原点に戻ることが、苦しいときにも少しずつ前進するための、原動力となるのです。

※筆者HPに2019年3月15日に掲載の記事より転載・改訂

参考資料

  1. ほぼ日刊イトイ新聞編. (2019). 岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。. 株式会社ほぼ日.
  2. Fredrickson, B. L., & Joiner, T. (2018). Reflections on positive emotions and upward spirals. Perspectives on Psychological Science, 13(2), 194-199.
  3. IT専門家に即役立つ極上アイデア発想法 [第11回]ポジティブ心理学者バーバラ・フレドリクソンが証明した創造力を高める基本スキル. (2021年4月10日に確認)
  4. 大平英樹(編).(2010). 感情心理学・入門. 有斐閣アルマ.

技能五輪選手強化心理アドバイザー/公認心理師/合同会社ネス

技能の熟達化を支援しています。ワーキングメモリと認知負荷に注目して、技能の上達を目指す人にとって最適な訓練環境の構築をお手伝いしています。

羽田野健の最近の記事