饒舌かつ叙情豊かなピアノ・ワールドを貫いたアーマッド・ジャマルが遺したもの[聴く]気になる…memo
2023年4月16日、ジャズ・ピアニストの巨人のひとり、アーマッド・ジャマルの訃報が届いた。92歳だった。日本の反応はビミョーで、そんな空気感が彼への評価も反映していると、ボクは冷めた目で眺めていた。
というのも、そんな空気感こそ自分のアーマッド・ジャマルに対する印象を反映していると納得してしまっているようなところがあって、訃報のツイートをリツイートすることもせず、追悼記事を書くつもりもコメントするつもりもなく、そのままこの件は終わるものだと考えていた。
ただひとつ、訃報記事のなかに、最後のアルバムが2014年に新録で制作されたものだと伝える文章があって、90歳になろうという時期まで創作意欲が衰えない人だったのかと、ちょっとだけ興味が湧いてしまったのが、ボクのアーマッド・ジャマル再発見のきっかけだった。
ボクのジャズ遍歴とアーマッド・ジャマル
いや、再発見もなにも、正直言って、アーマッド・ジャマルをちゃんと聴いてきたとは言えないのが、ボクのジャズ遍歴だ。
ボクがジャズと向き合うようになった1970年代後半、アーマッド・ジャマルはファンキーなフュージョン調のサウンドを前面に押し出してアメリカのR&Bチャートを賑わしていた。それはつまり、ファンクよりもストレート・アヘッドなジャズを求めていたボクの視界からは、残念ながら外れる存在になってしまったということだった。
もちろん、1950年代後半にヒットを記録した“ジャズらしい作品”のことはガイド本や専門誌の特集などで見知っていたけれど、名盤とされる『At The Pershing But Not For Me』 も、小遣いを捻出して(サブスクはもちろんレンタルCDとかもなかったからね)購入して聴くまでに至らなかったのだ。
アーマッド・ジャマルが、あの他人を滅多に褒めないマイルス・デイヴィスに褒め称えられたピアニストだ、という風評(それは後にマイルス・デイヴィスの自伝にも記されて公然のものとなった)を耳にしても、マイルス・デイヴィス作品のコレクションは増えたのにアーマッド・ジャマルへ食指が動くことはなかった。
前述のファンキーなフュージョン調については、当時はまだ“食わず嫌い”だったし、それ以前のヒット作もモダン・ジャズの作品群のなかでは耳当たりが心地よすぎて、要するに「こんなのジャズじゃねーよー!」とイキがりたい“お年頃”ゆえの無意味な反抗心だったんだろう。
とまあ、そんなこんなで遠ざけていたアーマッド・ジャマルに、今回、興味が湧いたのは、最近の10年ぐらいの、80歳代後半にさしかかっても創作意欲が衰えなかったという点だったわけなので、ザッとディスコグラフィを調べて、2010年代に制作された5作品を聴き込んでみることにした。
アーマッド・ジャマルは、エンタテインメント系ジャズならではの華麗なテクニックとグルーヴ感あふれるサウンドで一世を風靡した1950年代、ラテンのリズムを取り入れてよりポピュラリティを高めた1960年代、オーケストラとのコラボや前述のファンキーなフュージョン調にもトライした1970年代を経て、1980年代にはピアノ・トリオ(とパーカッション)を軸とした、アコースティックでシンプルなスタイルに回帰している。
ディスコグラフィを見ると、1980年代初頭にはシンプルなスタイルでの活動になっているのだけれど、そのきっかけがもしかしたら1980年のビル・エヴァンスの死に関係しているんじゃないかと思ったのは、1982年に『Goodbye Mr. Evans』というアルバムをリリースしていて、これがほとんど2010年代に至るアーマッド・ジャマルのスタイルと“同じ”と言ってもよい内容になっているからだったりする。
その相似性(1980年代から2010年代に至るアーマッド・ジャマルの作品傾向およびビル・エヴァンスとの関係性)については、また稿を改めたい。
アーマッド・ジャマル最晩年の秘密とは?
さて、前置きはこれぐらいにして、アーマッド・ジャマルがボクを改心させた最近の5作についておさらいしてみたい。
5作をピックアップする前に、1980年代以後のアコースティックでシンプルなスタイルの彼の諸作をツマミ聴きしてみたのだが、正直に言えばどれもが平均以上に優れた内容というわけではなかった。
“レジェンド”という領域に踏み込んでもなおジャンルを超えたサウンドメイクやインタープレイと呼ばれるメンバー間の音楽的コミュニケーションにさまざまなアプローチを試そうとするようすが記録されたりと、聴き応えのある内容だったりはするのだが、誤解を恐れずに言えば、「グッとくるものが足りない」と感じてしまったということだ。
ところが、その“グッとくるもの”に出逢ってしまったのが、『ブルー・ムーン』(2011年)を聴いたときだった。
足りないと感じていたものが充足した理由のひとつに、メンバー選定があったのではないかと思う。
『ブルー・ムーン』の前作『ア・クワイエット・タイム』(2009年)までは、1980年代からレギュラーを務めるジェームズ・カマックがベースを担当していたのが、『ブルー・ムーン』ではレジナルド・ヴィールに替わった。これが1曲の印象をガラリと変えるぐらい違う効果を発揮しているのだ。
ジェームズ・カマックは1956年生まれ、レジナルド・ヴィールは1963年生まれと、若干の世代差があるだけでなく、レジナルド・ヴィールと言えばエリス・マルサリスのツアー・メンバーとして注目されたあとにウィントン・マルサリスのベーシストとして確固たる地位を築いたという経歴をもっていたりするわけだが、乱暴に振り分けようとすれば、カマックがニューヨーク出身ならではのソフィスティケイトされたアンサンブルが得意なタイプであるのに対し、ヴィールはニューオリンズ出身ならではのトラッド・ジャズのエッセンスを意識的に活用しながら、マルサリス派ならではの“個性の集合体としてのジャズ”を追求するタイプ。
『ブルー・ムーン』は、アーマッド・ジャマルが後者のタイプによるサウンドメイクを選択肢のひとつに加え、それがボクのようなリスナーにインパクトを与えることになったのではないか──と考えたわけだ。
そして、そのインパクトをいちばん敏感に受けたのではないかと思われるのが、当の本人であるアーマッド・ジャマルで、続編に位置づけできる『サタデー・モーニング』(2013年)、『ライヴ・イン・マルシアック』(2014年)、『マルセイユ』(2016年)と、同じメンバーによる密度の濃いセッションが積み重なっていった。
ここで注意していただきたいのが、ジェームズ・カマックがレジナルド・ヴィールに“替わったから良くなった”と言いたいわけではなく、あくまでもアーマッド・ジャマルが選択肢を増やしたと解釈する点で、80歳代になった彼が取捨選択ではなく、“増やそうとした”ことこそがアーマッド・ジャマルのレジェンドたるゆえんなのだ──ということ。
取捨選択でなかったことは、彼が手がけた最後の作品『バラード』は、収録が2016年(リリースは2019年)で、収録10曲中の8曲がソロ・ピアノ、2曲にジェームズ・カマックが参加していることからもわかるだろう。そしてまた、アメリカのジャズ・チャート上位入りを果たしたという“結果”は、カマックとのプロジェクトが並列的に行なわれていて、そこへの熱意も失われていなかった証拠になるはずだ。
まとめると...
アーマッド・ジャマルは、2014年以降のツアー日程を減らすなど、80歳代後半にさしかかるにあたって、自分の音楽活動を見直そうとしたフシがあったようだ。
その“見直し”を反映したものが、ここで取り上げた“アーマッド・ジャマルのラスト5作”として(彼の創作意欲の一部ではあるが)遺されたのではないかと思っている。
アーマッド・ジャマルの訃報に接して弔文を書こうとは思えなかった自分が、その最晩年の作品に衝き動かされて長々と文章をたれ流してしまった。
これこそが、アーマッド・ジャマルの音楽の魅力であり、魔力にほかならないんじゃなかろうか。
彼に対する弔文は、udiscovermusic.jpのCharles Waring氏の記事(日本語訳)が秀逸なので参照されたい。