織田信長が瀬名と松平信康の処分を決意したのは、酒井忠次の未熟な対応にあった
大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名と松平信康が死に追いやられた。織田信長が瀬名と松平信康の処分を決意したのは、酒井忠次の対応にあったと言われているので考えてみよう。
天正7年(1579)、織田信長は五徳の12ヵ条の訴状により、瀬名が武田氏と通じたことを知ったので、対処せざるを得なくなった。同年6月16日、徳川家康から信長に馬が献上され、その使者として酒井忠次が参上した。以下、『改正三河後風土記』に書かれた話である。
信長は忠次を招くと、五徳の訴状について質問した。信長は五徳の訴状を取り出すと、信康の人間性に問題があること、武田方の誘いに乗ると由々しき事態になるではないかと忠次に述べ、「あなたはこの事実を知っているのか」と問いただした。
すると、忠次は「私がすべてを承知しているわけではないですが、根拠がないことでもないでしょう」と決して否定しなかった。信長は「どうしようもない。速やかに家康殿に信康を殺すよう伝えてほしい」と述べた。
忠次は、「信康は武勇に優れていますが、大変傲慢で残忍なことを行い、家臣の諌言を聞き入れないばかりか逆恨みするありさまで、国中の人々が恐れて安心できない」と述べたうえで、「信長公の意向(信康の殺害)は、家康に伝えます」と言い、退出したのである。
信長は忠次が徳川家の譜代の重臣で、家康の伯母の婿だったので、申し開きをしたならば信康の殺害を指示しなかったという。しかし、忠次はかねて信康を恨んでいたので、信長の命を了解して帰ったと記す。
一説によると、忠次は五徳に仕えていた「おふく」という女房を気に入り、五徳に頼んで引き取って寵愛していたという。しかし、信康はその話を聞いて五徳と忠次を憎み、忠次に辛く当たった。忠次はこのままではまずいと考え、信長に弁解せず信康を陥れたという。
似たような話は『三河物語』にも書かれているが、確かな史料には書かれていない。最近の研究によると、家康は信長の命を受けて信康を処分したのではなく、自らの意志だったという。この点については、追って紹介することにしよう。
なお、後日譚であるが、忠次は家康に自分の息子の取りなしを依頼した。すると、家康は「お前でも我が子がかわいいのか」と皮肉を述べたという。これは、忠次の讒言で信康が死に追いやられたとした前提の逸話である(『常山紀談』)。