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上杉景勝はヤケクソになって徳川家康に挑んだのではなく、水面下で石田三成と結託していた!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、上杉景勝と徳川家康との対決が避けられなくなったが、決して景勝はヤケクソになったのではなく、水面下で石田三成と結託していたという。この説が正しいのか、検討することにしよう。

 慶長5年(1600)、徳川家康は会津の上杉景勝に繰り返し上洛を促したが、決して応じることがなかった。景勝の家臣の直江兼続は「直江状」を送ったが、一読した家康はあまりの無礼さに激怒した。こうして家康は、会津征討を決意したのである。

 しかし、決して景勝はヤケクソになっていたのではなく、水面下で石田三成と盟約を結んでいたという。この説によると、景勝が上洛を拒否し、家康が会津へ向けて出発した後に三成が挙兵したのは、互いがあらかじめ仕組んだ作戦だというのである。

 この説の根拠は、『続武者物語』に収録された(慶長5年)6月30日付石田三成書状(直江兼続宛)である。次に、重要な箇所を示しておこう。

 先日、御細書(細かく内容を記した手紙)を預かり返事をいたしました。家康は一昨日の18日に伏見を出馬し、かねての作戦が思うとおりになり、天の与えた好機と満足に思っております。

 私も油断なく戦いの準備をいたしますので、来月初めに佐和山を出発し、大坂へと向います。毛利輝元・宇喜多秀家そのほかは、無二の味方です。

 会津方面の作戦を承りたく思います。中納言様(景勝)にも手紙を送っています。しかるべき御意(景勝の考え)を得るようお願いする次第です。

 文章を一読すればわかるとおり、景勝が家康を挑発し会津征討を決断させたのは、前から景勝と三成が考えていた作戦だった。しかし、中村孝也氏は、この書状が疑わしいと指摘したのである。

 その理由は、編纂物の『続武者物語』(延宝8年<1680>10月成立)がさまざまな所伝を年次不同で編集したものにすぎず、内容は信頼度の低い『武辺咄聞書』と変わらないからである。

 この書状に続けて、(慶長5年)7月14日付三成書状(兼続宛)が越後口の撹乱作戦を記すが、内容に疑義があるので、信憑性が低いと断じている。

 今井林太郎氏も同じ書状について、用語に疑わしい点があるので、後世の人による偽作ではないかと指摘する。原文にある「天ノ與ト」や「無二ノ味方」などの文言は違和感が残るが、三成が「天ノ與ト」という言葉を用いたことはあったようだ。

 『会津陣物語』も事前盟約説を採用する。ところが、近年の研究は、上杉氏が徳川氏に敗北した責任を直江兼続に押し付けるため、作者の杉原親清が創作したのではないかと指摘している。

 加えて言うならば、三成は景勝との交渉ルートがなく、真田昌幸を仲介者としていた。家康を挟撃するのに、間に昌幸を介するようでは、作戦がうまくいくのか疑問が残る。

 さらに、同年7月に三成が挙兵した後、景勝と三成が家康を討つため積極的に連絡を取り合ったり、軍事行動をした事実が確認できない。そもそも携帯電話がない不便な時代なので、上方から会津までこまめに連絡を取るのは困難だった。

 景勝と三成が事前に盟約を結んでいたというのは、史料的な根拠が十分でないうえに、現実的にもかなり困難だったと考えられる。したがって、虚構とみなして差し支えないだろう。

主要参考文献

今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館、1961年)

太田浩司『近江が生んだ知将 石田三成』(サンライズ出版、2009年)

中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究 中巻』(日本学術振興会、1980年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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