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奇跡のペア「ワタガシ」、13年の戦いに幕=バドミントン

平野貴也スポーツライター
五輪2大会連続銅メダルの「ワタガシ」ペアが、13年の戦いに幕【筆者撮影】

 奇跡のペアが、13年の戦いに幕を下ろした。日本で行われる最高峰の国際大会ダイハツジャパンオープンは、8月23日に準々決勝を行い、混合ダブルスに出場した渡辺勇大/東野有紗(BIPROGY)の「ワタガシ」ペアは、楊博軒/胡綾芳(台湾)に0-2で敗れた。

 2人は、今夏に行われたパリ五輪で日本バドミントン界初となる2大会連続の銅メダルを獲得。集大成の場として臨んだ大舞台を終え、今大会を最後にペアを解消することを発表していた。中学生時代に海外遠征で初めて組んでから13年、多くの歴史を塗り替えながら、ともに歩んで来た2人が、ペアとしての戦いを終えた。

 週末の試合に残れなかった悔しさは漂ったが、渡辺は「勝ち負けは、どうしてもつく。日本の方々の前で(最後に)プレーできたのは、すごくうれしかったです」と話した。

中学時代、学生大会にはない「混合ダブルス」で組んだ背景

 歴史を変えてきたのは、奇跡的に生まれたペアだった。1学年上の東野が北海道岩見沢市、渡辺が東京都杉並区の出身。ともに越境入学した富岡第一中時代で出会った。中学生の大会では混合ダブルスは行われず、ペアを組む機会は、ないはずだった。

 しかし、2011年、中学2年の東野、1年の渡辺が、先輩たちを送り出す卒業式を終えた富岡高校の体育館で練習を行っていたとき、東日本大震災が発生。学校が福島第1原発から近く、元の環境で過ごすことはできなくなった。バドミントン部は、海から離れた内陸部にある猪苗代中学校に設置されたサテライト校で活動を再開できるようになったが、以前のように専用体育館を使える環境ではなくなった。

 翌2012年、チームは長期休暇に思い切り活動できる場を求め、国内遠征とあまり変わらぬ金額で可能だった海外遠征を実施した。国際大会には、混合ダブルスがある。そこで初めて、2人はペアを組んだ。チーム内で実績のある選手同士がペアを組む中で「あまり者同士」だったというが、大きな可能性のかけ合わせだった。

東野からペア継続の誘い、渡辺が「世界を狙える」と本腰

【筆者撮影】
【筆者撮影】

 富岡高校でも、ジュニア世代の日本代表として国際大会に出場し、ペアを継続。日本では珍しく、中学・高校からキャリアを積む、混合ダブルスのペアとなった。その間、2人が新しい可能性に気付き始めたことが大きかった。東野は、運動能力が抜群。本人は、誰でもやるものだと思っていたというが、女子では珍しくジャンピングスマッシュを使いこなし、後衛でも攻撃力を生かせる稀有な選手だ。高卒でBIPROGY(当時、日本ユニシス)に加入。女子ダブルスの選手として期待を受けていたが、学生時代から、才能豊かな渡辺のプレーに惚れ込み、ペアを継続させるため同じ所属先を選んでほしいと渡辺に連絡するほどだった。

 渡辺は、2021年の東京五輪に男子ダブルスと合わせて2種目で出場するなど、対応力の高いプレーヤーだ。柔らかい筋肉を生かした、飛び跳ねるようなフットワークがベース。その上、駆け引きにも優れる。高い跳躍から鋭い強打と、相手の逆を取ってストンと手前に落とすドロップショットの使い分けは、世界でも屈指。この才能あふれる男が、各国が強化に苦しんでいる種目であることに早々と気づき「混合ダブルスなら世界を狙えると思った」という感性を持っていなければ、歴史を変える「ワタガシ」ペアの継続はなかった。渡辺も混合ダブルスの継続を望んだため、2人は同じ実業団に所属した。

2018年に鮮烈な世界デビュー、次々に歴史を塗り替える

 実は、日本は、社会人でも男女両方のチームを持つ実業団は少なく、日本代表活動以外では、一緒に練習することが難しい。日本代表で混合ダブルスを担当するジェレミー・ガンコーチは「日本には、ポテンシャルがあるが、男子しかない、女子しかないというチーム状況があり、相性が良くてもペアリングできないところが課題」と環境の問題を指摘する。

 2004年のアテネ五輪で惨敗した日本が、朴柱奉ヘッドコーチを招へいして強豪国へと成長する過程においても、混合ダブルスは課題種目のままだった。他の種目で一区切りをつけた選手、あるいは伸び悩んだ選手が、ようやく本腰を入れる種目というのが、実態だったからだ。しかし「ワタガシ」の2人は、社会人になる段階から混合ダブルスに注力する考えを持った若いペアで、今までの選手にはない伸びしろを持っていた。2016年のリオデジャネイロ五輪が終わると、翌年の世代交代で「ワタガシ」ペアが日本A代表入り。歴史を変える歩みが始まった。

 2018年1月にジェレミーコーチが初めて混合ダブルス専門のコーチとして招へいされると、2カ月後の3月に世界を驚かせた。世界選手権よりも歴史が古く、長らく世界一決定戦として行われてきたため、最も権威のある国際大会として知られている全英オープンで初優勝を飾ったのだ。当時は、世界ランク29位で無名だったが、初戦で第3シードを撃破すると、破竹の勢いで頂点に立った。混合ダブルスでトップレベルの国際大会を優勝した最初の日本人ペアとなった2人は、次々に歴史を塗り替えた。

 19年には、世界選手権で日本が唯一メダルを獲得していなかった混合ダブルスで銅メダル。21年には、再び全英オープンを優勝し、東京五輪で銅メダル。同種目初の日本人メダリストとなった。22年には全英を連覇して3度目の優勝。21年と22年は、世界選手権で銀メダルも獲得した。23年はジャパンオープンで日本選手として同種目初の優勝。そして、今夏のパリ五輪で日本勢初の五輪2大会連続メダル。日本の課題種目だった混合ダブルスをエース種目にまで押し上げた。

 東野は「勇大君とミックスダブルスをやって五輪に出たいという思いが、中学、高校から強い思いがあって、実現できたし、たくさんのメダルも取れたし、歴史もたくさん作れたのは、本当に一番良い思い出」と戦いの日々を振り返った。

絶妙な相性「僕らだから、ここまでやって来れた」

【筆者撮影】
【筆者撮影】

 世界を代表する選手となり、バラエティー番組などでも仲の良さは知られるところとなったが、プレー面だけでなく、性格面でも相性が抜群だったことは、躍進の大きな背景だった。渡辺は「先輩は陽キャ(ラクター)だけど、僕は陰キャだった」と言い、東野は学生時代の渡辺を「尖っていた」と表現する。渡辺は、オリジナリティーを好み、こだわりが強く、自分で自信を作れるタイプだが、自分をコントロールするのに苦心することもある。

 しかし、東野は渡辺に対するリスペクトが大きく、心配そうな表情をしながらも、常に渡辺の言動を尊重し、見守ってきた。その背景があるからこそ、渡辺は、感情が暴走しそうなときでも、東野の言葉には耳を傾ける。渡辺は「戦術面では自分から話すことが多いけど、それ以外でペアを引っ張っているのは先輩。僕は、東京五輪のときも何度も気持ちが折れそうだった」と話し、東野がかける言葉が支えになっていることを認めてきた。一方、東野はプレー面で自信を失うことが多かったが、渡辺のプレーに引っ張られて立ち直る試合が度々あった。

 試合後、互いへのメッセージを聞かれると、東野は「13年も組んでいるペアはないと思う。ここまでやって来れたのは、勇大君のおかげ。感謝の気持ちしかない」と話し、渡辺も「ありがとう、しかない。僕らだから、ここまでやって来れた。一瞬の優勝のために、2人で支え合いながらできたのは、2人だからできたこと」と感謝を示した。

 今後、渡辺は別のパートナーと混合ダブルスを続け、東野は女子ダブルスに主戦場を移す。日本バドミントン界に新たな歴史を築いた「奇跡の混合ダブルスペア」が、長かった戦いに幕を下ろした。

スポーツライター

1979年生まれ。東京都出身。専修大学卒業後、スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集記者を経て2008年からフリーライターとなる。サッカーを中心にバドミントン、バスケットボールなどスポーツ全般を取材。育成年代やマイナー大会の取材も多い。

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