GPIFのリスクを正しく論じるために
投資の世界では、リスクをとれとか、とるなとか、リスクが高いとか、リスク管理だとか、リスク分散だとか、投資自体がリスクだとか、はてはリスクオンだのオフだのと、とにかく、リスクという言葉を用いた言説が氾濫しています。しかし、これは、決して活発な建設的な議論を意味するものではなく、リスクという用語の曖昧な使用に起因する混乱と誤解と誤謬と無意味の氾濫にすぎません。
多義的なリスク
リスクについての議論の誤謬というのは、議論の内容もさることながら、より重要な問題として、議論の仕方自体が間違っているということです。リスクの意味を厳格に定義して、同じ定義のもとで議論しないと、議論にならない。各自が勝手なリスクを念頭に置きながら議論しても、それは、単なる言葉の応酬にすぎず、無意味であるどころか、建設的で生産的な討議への道を塞ぐものですから、極めて有害です。
そもそも、リスクという言葉は何を意味しているのか。実は、リスクは極めて多義的です。そこで、私は、リスクという言葉を使わないようにしています。リスクといおうとするとき、その言葉で意味しようとしていることを、それに相応しい別の日本語で置き換えるのです。例えば、リスクによって、不確実性をいいたいのなら、不確実性といえばよく、損失の可能性をいいたいのならば、損失の可能性といえばいいのです。
もしも、一方が不確実性の意味でリスクといい、他方が損失の可能性の意味で理解すれば、それは、まともな議論にはならない。リスクは多義的だから、自分の意図に合うように狭く定義して、それを日本語で置き換える、そのような努力を自覚的に全ての人が行えば、議論は建設的で実り豊かなものとなるでしょう。
GPIFはリスクをとれ
不問は議論の代表例をあげましょう。公的年金資産の運用改革について、もっとリスクをとれという論者は大勢います。しかし、これらの論者は、リスクを論じているのではなく、その裏に、具体的な意図なり、要求なりをもっているにすぎません。
もしも、論者がリスクをとれということによって意味することを、具体的に日本語で表現したら、実は、公的年金資産の立場として、より具体的には、それを運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の立場として、受け入れ難いものであることが明瞭である場合が多いのだと思われます。
実際に、閣僚のなかにすら、GPIFがもっとリスクをとるということを、日本の株式を何兆円も買うことだと思っている方もいるようで、それは、株価上昇を願う政権の立場からは、理解できなくもない下心ですが、GPIFは公的年金給付の原資という高度に社会性を帯びた資産の運用に責任を負うのですから、その現場の担当者の立場からいえば、全くもって筋違いな議論です。
同様に、先月、経済産業省の「ベンチャー有識者会議」の報告書がでましたが、そこでは、「ベンチャーへの投資は、長い期間をかけた、リスクの大きい投資である」との前提のもと、GPIFに対して、「リスク資金の抜本的な供給強化を図る」旨の提言がなされています。要は、ベンチャー投資の資金が少ないので、GPIFにお金の融通をお願いしたいという、ただ、それだけのことです。まさか、公的年金資産運用の立場として、はい、わかりました、というわけにはいかないでしょう。
要は、GPIFについて、もっとリスクをとれなどという論者は、概ね、自己の都合のいい方向へ公的年金の資金を使ってほしいという、勝手極まりないことをいっているだけなのです。逆に、そのような勝手な議論をもっともらしく偽装するために、リスクという用語を便利に使っているにすぎません。
GPIFはリスクをとらない
では、それに対して、GPIFの立場として、リスクはとれないというとき、それは何を意味しているのでしょうか。
公的年金の資産運用の立場からするとき、誰にも反論できない正論として、故に、決して外すことのできない規律として、資産運用の基本政策を律する原則は、国民の老後生活を支える年金の給付原資としての性格から導かれる論理的帰結に忠実であれ、ということになるのですから、リスクとは、きわめて明瞭に、その原則からの逸脱のことなのです。
従って、株価対策の視点や、ベンチャー育成の視点から、リスクをとれといわれると、それは、確かに、公的年金の資産運用の本来のあり方からの逸脱であって、許容できないリスクなのですから、そのようなリスクはとれないという反論になるわけです。
それに対して、リスクをとれという側からは、とれるはずのリスクをとらないのはおかしいとか、保守的にすぎるとか、新しい運用への取り組みの努力が足りないとか、勝手な反論がおきる。しかし、その反論は、公的年金資産の本来の立場からするものではない。実に、不毛な議論です。
GPIFの運用については、リスクは、その本来の資産性格から導かれる基準からの逸脱と定義されなければならず、そのような逸脱はあり得ない以上、リスクをとることはあり得ないことになる。リスクは厳格な規律のもとに徹底して避けるのみ、これは当然のことです。
現状のGPIFはリスクをとっている
そのような厳格なリスク管理の意味において、現在の公的年金資産運用のあり方には、リスクがないとはいえません。むしろ、大きなリスクをとっているといえます。
現状の運用のあり方は、どうみても、過去からの連続を表層的な理論の装飾のもとに正当化したもの以上ではないこと、公的年金の給付原資としての資金性格に基づく運用哲学が貫徹したものでないことは、なによりもGPIFの関係者自身にとって、明瞭だったはずです。そこには、本来のあり方からの逸脱という意味でのリスクがあり、しかも、それは、長年にわたって、放置されてきたのです。
ただし、単に放置されてきたのではなく、GPIFの資産運用のあるべき姿については、それに携わる関係者によって、長らく改革へ向けた検討がなされてきたはずです。つまり、資産性格を理論的に吟味し、それとの対比においてリスクを徹底的に管理して、それをとり除く、そのような方向への検討が真摯になされてきたのです。
しかし、検討はしてきても、なかなかに実際の行動には移せない状況にあったのだと思われます。それは、先決問題として、GPIF内部で意思決定をするための統治構造について改革がなされなければならないからで、そのGPIFの統治改革は、抜本的な組織改革を意味するでしょうから、政治的に困難な課題であり続けたわけです。
アベノミクスが全てを変える
ところが、安倍政権の成立は、状況を大きく変えました。成長戦略の裏には構造改革があり、その構造改革の裏には統治改革がある、そして、その統治改革とは、投資家における統治改革と被投資側の産業界における統治改革との一体改革とされ、故に、日本における圧倒的に巨大な投資家であるGPIFの統治改革が急務となる、これが、安倍政権の経済政策の要諦なのです。
そこで、政権発足以来、従来からの検討に拍車がかかり、いよいよ、GPIFの資産運用のあり方が抜本的に変わる、その変革は、もうすぐ起きる、そのような思惑がGPIFの運用についての巷の勝手な議論を引き起こしているというわけです。
そして、現実に、GPIFにおいては、むしろ、本来の意味におけるリスクをとり除くための改革として、資産運用内容が大きく変わることもあり得るのです。結果的に、株式が増えるかもしれないし、ベンチャー投資も始まるかもしれない。
おそらくは、理論的に考えて、改革の方向性は、公的年金資産の増殖が、日本経済の将来展望において、名目所得の成長に追随するように、あるいは、それを上回るように、資産構成を工夫することになるのだろうと思われます。そうしますと、当然に、広範な経済活動の成果を平均的にとり入れるような工夫がなされるので、ベンチャーやインフラストラクチャなども、視野に入ってくるのでしょう。
リスクをとらないことがリスクをとること
つまり、論者がGPIFにリスクをとれといっていることが、GPIFの立場からは、リスクをとらないこととして、実現するかもしれないのです。
ですから、リスクをとるとか、とらないとか、勝手なリスク定義のもとでの議論は無意味なのです。株式投資にしろ、ベンチャー投資にしろ、はたまたインフラストラクチャだろうが、プライベートエクイティだろうが、そこにリスクがあるかどうかは、リスクの定義の問題にすぎず、定義の議論をさしおいて、抽象的にリスクをとることの是非を論じることなど、全く無意味なのです。
そうではなくて、公的年金資産の運用の本来のあり方からみて、名目所得の成長に追随するためには、あるいは、それを上回るためには、何にどれだけ投資するのが妥当か、そして、もしも何かに投資するならば、当該投資対象は、いかなる条件を充足すべきものか、ただ、こうした本質的な問いだけが問題なのです。そこには、リスクという用語で説明すべき重要な論点はないのです。
例えば、先ほどの「ベンチャー有識者会議」の報告書ですが、ベンチャー投資のリスクは大きいので、そのようなリスクを積極的にとれるのは、GPIFをはじめとする年金資産である、という論理だとしたら、そのリスクの定義が何であれ、間違った論理でしょう。
年金資産であろうが、大学財団だろうが、個人富裕層だろうが、投資家が背後に背負う資金性格から判断して、ベンチャー投資が適合した投資対象ならば、投資すればいい。そうでなければ、投資する必要はない。不適合性をリスクというなら、確かに、大小を論じ得るかもしれませんが、それは、投資家側の問題あって、ベンチャーという投資対象の問題ではない。
一般には、リスクの大小は、投資対象の属性として議論されているのです。しかし、論じられるべきは、投資対象そのものではない。どの投資対象であれ、それがまともなものである限り、一定の社会的正当性を有するものでしょうから、投資家を見出し得るはずです。ただし、それは、どこまでも、投資家先にありきの話であって、投資家との適合性だけが問題となるのです。投資対象先にありきの議論は、おかしい。
投資の技術としてのリスク管理
投資家先にありきで考えると、その投資家の視点からは、投資対象が備えるべき要件が色々とでてくるわけですね。そこには、よくリスクという用語で語られる技術的な論点もあるのです。
またベンチャーを例にだせば、ベンチャー投資はリスクが大きいといわれるとき、それは、本来は、金融の高度に技術的な側面において、制御の難しい危険や大きな不確実性(というよりも、よりあからさまに表現して、賭けの要素)が不可避的に付き纏うことを意味している、あるいは、意味すべきだと思われます。
仮に、GPIFにおいて、ベンチャーに投資することが妥当であるとなったとしても、そこには、投資の前提として、解決しなければならない技術的な諸問題があります。それらの諸問題をリスクと呼びたいのであれば、それはそれでいいでしょう。
ただし、このとき、リスクは制御されることが前提なのです、資産運用の技術とは、そのリスクの制御の技術のことです。GPIFにベンチャー投資をしろというのは、具体的には、ベンチャーキャピタルに投資しろということかと思われますが、ベンチャーキャピタルの運用者に、そのような技術がなければ、GPIFとしては、投資のしようもないということです。
もっとも、いかに工夫しても制御し得ない危険や不確実性は残るでしょう。もしも、リスクをとるという表現が成り立つとしたら、それは、ベンチャー投資をする以上、制御できない一定の危険や不確実性は、必要なコストとして、受け入れなければならないということであり、ただ、その限りのものとして、理解されるべきです。
こうした議論の枠組みは、ベンチャー投資だけのものではない。敢えて、リスクという用語を用いるならば、全ての投資対象について、制御されるべきリスクと、制御できないリスクがある。各投資対象の固有のリスクについて、また、多数の投資対象を組み合わせた結果としてのリスクの総量について、資産運用の世界には経験に基づく管理の技法がある。いま問われていることは、その技法の質であり、その技法の担い手の倫理です。