【登山の歴史】征服される最後のフロンティア、ヒマラヤ!山頂で刻まれる人間の歴史
ヒマラヤ山脈は、地球の屋根と呼ばれ、山岳冒険家たちの「最後のフロンティア」としてそびえ立ちました。
その始まりは、軍事的・戦略的な調査という大英帝国の目的にありましたが、次第に個々の冒険心へと変わり、1892年にウィリアム・マーティン・コンウェイ卿がカラコルム・ヒマラヤの7000メートル級の頂を探検する道を切り開きました。
しかし、山々は厳しく、命をも奪います。
例えば、1895年のアルバート・F・ママリーはナンガ・パルバットで命を落とし、さらには20世紀に入りK2やカンチェンジュンガでの試みも天候や不運に阻まれました。
この時代、エッケンシュタインやクロウリーといった探検家たちは、山登りの技術革新にも貢献しました。
ピッケルやアイゼンの改良が登山の未来を切り拓いたのです。
その一方で、女性登山家ファニー・ブロック・ワークマンのような存在も現れ、彼女はヒマラヤの高峰に挑戦し、登山の新しい可能性を見せたのです。
そして、歴史的瞬間が訪れます。
1953年5月29日、エドモンド・ヒラリー卿とテンジン・ノルゲイがエベレストの頂に立ちました。
それは、1924年のマロリーとアーバインの失踪という悲劇を乗り越えた人類の勝利だったのです。
その後も、ヘルマン・ブールによるナンガ・パルバット単独登頂やK2初登頂、ラインホルト・メスナーの無酸素登頂など、山は挑戦の場であり続けました。
登山は次第にエリートの趣味から一般大衆のレクリエーションへと変化しました。しかし、一部では商業化が進みすぎたとの批判もあります。
それでもなお、ヒマラヤの壮大な峰々は、人々を引きつけ続け、挑む者たちに無限の可能性と試練を与えています。