You Can Do Anythingという責任と規律
You Can Do Anythingといえば、何をしてもいいという自由を意味するはずですが、それが、なぜ、責任と規律を意味するのか。それは、何をしてもいいと、何もしないでいいとは違うからであり、また、何をしてもいいからといって、全く無制約ではないからで、そこには、社会に対する関係で、自由の反面としての責任と規律があるということです。
債務人材と資本人材
私は、人材像について、二つの異なる類型を設け、それぞれに固有の処遇のあり方を考えてきました。一方は、期待という債務を負って働く人で、債務人材と名付け、他方は、自由という責任を負って働く人で、資本人材と名付けました。この区分は、人の働き方として、企業に限らず、社会一般に通じるとは思いますが、ここでは、企業の人事政策との関係で検討します。
さて、You Can Do Anythingというわけですから、自由のもとでの資本人材の働き方を論じようとしているのですが、対比の意味もあるので、先に、簡単に債務人材の働き方をみておきましょう。
債務人材というのは、実のところ、ごく普通の企業の人材のことです。ごく普通のという意味は、新入社員だろうが、最上層の幹部職であろうが、企業内の人材は、基本的に、企業の自分への期待の実現、即ち、企業から自分に与えられた具体的な職務の遂行もしくは達成こそが責務だと考えているだろうからです。
故に、報酬とは、期待に対する報酬になります。成果主義ということをいいますが、成果に対する報酬とは、期待以上の貢献、あるいは期待以下の貢献についての事後的な調整にすぎません。報酬は事前に決めておかなければならない以上、成果主義的調整は当然のことです。純然たる成果主義といいますか、事後的な出来高払いのようなことは、少なくとも、一般の企業人事では、ごく限られた仕事と人材についてしか成り立ちません。
また、組織論的にいえば、債務人材型管理が有効に機能し、組織全体として期待に応えるためには、企業の経営戦略全体が、整合的に関連した個々の期待の系列として、各人へ配賦されていなければなりません。企業人事とは、そのようにして、適切な人材に適切な機能を付与し、機能期待に応じた報酬を決めることであり、また、期待の実現度の測定により、期待と実績の差を、人材の配置転換、期待の再定義、報酬の事後的調整などを通じて是正していくことです。
ところが、ここに大きな問題があります。このような組織、このような人事管理体系のもとで、どうしたら内部から変革が生まれるというのでしょうか。企業は成長しなければならない。成長とは、変わり続ける外部環境に対して、絶えざる変革と革新の連続によって、対処していくことにほかなりません。しかし、債務人材に変革を期待することはできないのではないか。なぜなら、変革とは、企業からの期待に反する要素を含まざるを得ないはずだから。
それとも、企業の変革は、外部からしか起こり得ないのか、即ち、新経営陣の招聘、被買収や合併(あるいは破綻)による経営刷新によるほかないのか。
変革の担い手としての資本人材
企業のなかからの変革を担うのが、資本人材です。そして、その資本人材を律するものが、企業からの受動的な期待ではなくて、You Can Do Anythingという個人の自律的な行動原理なのです。
変革や革新は、どう考えても、非連続なものであり、創造的な飛躍でなければなりません。そのような創造の担い手は、債務人材ではあり得ません。創造は、外部からの期待によっては生まれ得ず、また、組織の設計からも生まれないのです。創造の原点は、常に個人の内面の問題です。創造の芽は、個人の自由な活動のなかにしかありません。故に、You Can Do Anythingです。その自由のもとでの創造の担い手を、債務人材(即ち、通常の企業内人材)と区別して、資本人材と呼ぶわけです。
資本人材からみたとき、企業とは、自由な創造がなされる場ですが、企業の立場からみたときには、その場とは、企業が創造の誘発を意図して設計した環境です。企業は、債務人材を管理します。しかし、資本人材については、資本人材を管理するのではなく、資本人材の活動する環境を管理するのです。
なお、創造の芽は、企業の手で育てられ、企業の成長につなげられていくのですが、それを担うのは、もはや債務人材でしょう。資本人材の機能は、あくまでも、創造の原点にあるのです。
次元が違う資本人材の自由
資本人材については、例えば環境の設計の問題とか、報酬のあり方とか、語るべき論点は非常に多いのですが、今回は、特に責任と規律の側面に重点を置きましょう。
要点は、企業のなかでYou Can Do Anythingといったとき、無条件無限定の自由ではあり得ないということに帰着します。それにしても、このことは、ごく当たり前ですね。
ここで、一つの問題は限定の範囲です。債務人材も、期待の実現の方法については、一定の自由をもっているはずです。企業人事制度では、多くの場合、企業からの期待と本人の目標との一致を擬制(いわゆる目標管理です)していて、そうすることで、本人の職務への主体的関与(片仮名でいえば、インゲイジメントengagement、もしくはコミットメントcommitmentですが、片仮名でいう必要もない)を引き出しているのです。
実際、期待を上回るための努力、即ち、自発的な創意工夫がない働き方など、人間の生き方として、考えにくいのです。もっとも、現代社会の病理は、人間の勤労観の基礎をも蝕んでいるかもしれませんが。
さて、昇格とは何かといえば、企業経営からの期待が大きくなることにほかなりません。期待が大きくなれば、創意工夫の余地は大きくなる。では、債務人材は、昇格して与えられる期待が大きくなると、資本人材に接近していくのかというと、そうではなくて、債務人材は、どこまで行っても債務人材です。債務人材から資本人材へは、程度の差を超えた飛躍があります。You Can Do Anythingの自由とは、通常の裁量余地における創意工夫とは、次元が違うのです。
リーダーと資本人材
確立した組織規律のなかでの債務人材の自由と、資本人材の自由の結果として新たに作られる組織規律とは、明らかに次元の違うことです。債務人材の自由は、組織規律を超え得ず、組織を変えることができない。それに対して、資本人材の自由は、組織の外にあるが故に、変革を通じて組織を超え(あるいは旧組織を壊し)、しかも、組織の中にあるが故に、新たなる組織化の原理の働きで再組織化させる(あるいは新組織を生む)ことができるのです。
組織の外といい、組織の中といえば、矛盾するようですが、そうではありません。企業というものは何らかの組織化の原理で統合された人の集団ですが、その組織化を担う人材が資本人材ならば、資本人材には、主体として組織化する面と、客体として組織化される面があることがわかります。この二つの面は、同じ人の二つの面です。
実のところ、ここで資本人材をめぐる議論として展開されていることは、普通の企業人事の世界でリーダーシップ論として展開されているものと似たものです。リーダーとは、組織の中にいなければならないと同時に、組織を外から相対化できるだけの距離をもたないといけない。リーダーとは、組織変革の旗手であり、ここでいう資本人材と重なる要素の多いものだと思われます。
では、資本人材あるいはリーダーの自由と規律とは何でしょうか。いうまでもないですが、リーダーは自由に他人に規律を課すというような低次元な話ではありません。そうではなくて、他人に規律を課す以上、自己が従わなければならない規律があるということです。その規律は、徹底した自己規律です。
改めて、You Can Do Anythingに立ち返るとき、それは、字義通り、何でもできるということでなくてはなりません。何をするかは、自分で決める。徹底した自己規律です。この自己規律、完全に対自的なものかといえば、そうではなくて、対他的、即ち、対組織的あるいは対企業的な側面があるに決まっています。つまり、当たり前ですが、広くいって、対社会的責任がない自己規律など、あり得ないのです。
その社会的責任ですが、二つあるのだろうと思います。第一が、何をしていいにしても、何かは必ずなさねばならないということであり、第二に、何をしていいにしても、企業が設定した環境、即ち、企業がもつ有形無形の資産の蓄積ですが、その環境の有効な活用方法として論理的に帰結してくる事業の構想でなくてはならないということです。
第一の何かをなさねばならないということ、逆にいえば、何もしないことは許されないということですが、これは、さも当然のことのようでいて、実は、厳しいものです。というのも、You Can Do Anythingのもとでは、うまくいかなかった場合には、他のやり方もあったであろうという批判に対して、反論できないというか、言い訳が許されなくなるからです。絶対に言い訳できないということ、結果が全てであるということ、これがYou Can Do Anythingから帰結する厳しい責任のありようです。
成長の鍵は債務人材の資本人材化
では、第二の問題ですが、企業が用意できる環境には制約があって、資本人材の力が十分に働かない場合があるのではないかとも考え得るわけです。しかし、環境を制約と考えるような人材は、資本人材ではないのです。リーダー失格です。企業は、そのような人材を必要としない。環境は、制約ではなくて、処遇です。環境を自由に利用できることを自己の利益と考えないような人材は、企業内人材としては、あり得ないのです。
そのような人は、企業を去ればいい。ただし、人材の立場からいうと、去ればいいのですが、企業の立場からいうと、逆に、企業が提供できる環境を利益だと思う資本人材を外から獲得していかなければいけないということです。市場において流動化している人材は、間違いなく、その大半が債務人材でしょう。希少な資本人材をいかにして引き付けるか、そこに企業の成長戦略の要があるのです。
しかし、より重要なことは、企業内の人材の活用です。債務人材と資本人材の区別は、企業が人を処遇する仕方の問題であり、また、当人の働き方についての志向性の問題ですから、人間の固定的な属性ではないのです。債務人材が圧倒的に多くなるのは、企業の人の使い方の問題であり、そのような状況における働く側の反応の問題です。
日本は、日本の企業は、まだまだ成長できます。その成長の鍵は、変革です。その変革の鍵は、債務人材の資本人材化にあると思われます。