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イラク戦争開戦に踏み切った英国で、何度も行われた検証作業(下)

小林恭子ジャーナリスト

 (上)については、こちらをご覧ください。

バトラー調査が諜報情報を吟味する

ハットン委員会の報告書が「何故イラク戦争を開始したのか?」の疑問に答えてくれると思った国民は、落胆した。そこで、戦争前の政府の情報活動を検証するため、政府は新たに調査を開始することになったーこれもまた、税金を使っての調査である。同時期に、米国でもブッシュ政権がイラク戦争にかかわる諜報情報についての調査委員会を立ち上げる動きを見せていた。

政府が元官房長官のバトラー卿に命じる形で始まった調査は正式には「大量破壊兵器の情報の見直し」という名前だったが、通称「バトラー調査」と呼ばれるようになった。先のハットン委員会同様、政府が命じた調査であるので、国税が運営資金だ。

調査会のメンバーは政府が主要野党との交渉で最終決定した。バトラー卿に加え、労働党議員(当時は与党)、保守党議員(当時は野党)、元国防省高官、後に別の委員会を率いることになる高級官僚ジョン・チルコットであった。2月から始まった会合は非公開で回を重ね、7月14日に報告書を公表した。結果は、既にギリガン記者が報道していた内容、国民がうすうす感じていた状況を、概ね裏付けるものだった。 

報告書は、「イラクは配備できる生物化学兵器を開戦前に保有していなかった」、「この点からイラクが他の国より緊急な課題であった証拠はなかった」、「45分の箇所を裏付ける十分な情報がなく、2002年の報告書に入れるべきではなかった」とした。

また、「官邸が02年の時点でブッシュ政権のフセイン打倒方針を支持する意向を固めていた中、統合情報委員会は不十分な情報をもとに性急な報告書をまとめた」とし、スカーレット統合情報委員会委員長が何らかの形で官邸からプレッシャーを受けていたことを示唆した。 

先のハットン報告書では、スカーレット委員長が、02年文書の作者として、脅威を強い表現で書き表したいという官邸の意向を「潜在的に汲んだ可能性がある」とした部分を裏付けた。 

しかし、バトラー報告書は、「統合情報委員会の評価や判断が政策への配慮から特定の方向に引っ張られたという評価は見つからなかった」ともしている。 ギリガン報道の中の、「政府が誇張した」という部分は証明されたとしても、「嘘と知りながら」とした部分は証明されたのだろうか? 

ギリガン自身は、「自分の報道が正しかったことがバトラー報告書で証明された」とBBCのニュース解説番組で語った。報告書は「45分の箇所を裏付ける十分な情報がなく、2002年の政府文書に入れるべきではなかった」など、充分に確証がない情報が入ったことを明言し、これは「確証がないのを知っていて入れた」、つまりは「嘘と知りつつ」という部分を意味し、「報告書そのものが、自分の報道の裏づけ」とした。 

今度は政治的判断を解明へ

ハットン委員会、バトラー調査も、ブレア政権がイラクの脅威を誇張し、国民を「だまして」戦争に参加させたのではないかという疑念を解明することができなかった。

そこで、2010年から開戦にかかわる政治事情を検証する「チルコット委員会」(枢密院メンバーのチルコットが委員長。チルコットはバトラー調査にも参加)が調査を行った。正式名称は「イラク調査」である。時のブラウン首相が調査を命じる形で発足させ、国税を使っての調査である。

委員会のメンバーは首相が選出した。チルコットのほかには、歴史家が二人、前ロシア大使、上院議員が一人の全6名である。

2012年2月に調査は終了したが、2014年7月現在、報告書の発表時期は正確には決定していない。

公表が遅れていた大きな理由の1つは、委員長が報告書に入れることを希望していた書類が機密扱いになっていたためだ。

委員会によれば、03年の開戦にいたるまでの時期の閣僚レベルの会議の議事録、ブレアがブッシュ米大統領に送った25の書簡、ブレア、次の首相となったゴードン・ブラウン、そしてブッシュ間の130以上の会話記録だ。

チルコット委員長は政府に対して一連の記録の公表願いを出し続けてきたが、「司法上及び外交上の理由」から許可が下りないままでいた。公開の最終的判断はキャメロン首相のアドバイザー役となる官房長官が行う。もし公開されても、部分的に黒塗りになるとも言われていた。

今年5月、委員会と官房長官側が会話の要約の公開について合意したと報道された。これを機に、年末には報告書が出るといわれている。

新たな国連決議は必要だったか?

チルコット委員会の調査を通し、「嘘をついたのかどうか」、「合法か違法か」の2点についてどのような証言が出ているかを若干、拾ってみたい。

開戦前、イラクには大量破壊兵器があると政府は国民に対して繰り返し説いた。また、武力行使の理論的根拠は、さらなる情報開示と査察の全面受入れを求めた国連決議1441にイラクが違反しているためだ、という説明があった。

当時外務省の副主席法律顧問だったエリザベス・ウイルムスハーストは、開戦前夜、イラクへの武力行使は新たな国連決議なしには国際法に違反するというのが法律顧問チームの一致した見方だったと述べた(2010年1月26日の公聴会にて)。

一方、ピーター・ゴールドスミス法務長官(イラク戦争当時)は外務省の法律顧問とは異なる見方をした。法務長官は政府の最高法律顧問の役割を持つ。

ウィルムスハーストが召還された日の翌日27日の公聴会に出席したゴールドスミスは、当初は既に採択された国連決議だけではイラク攻撃を正当化するには「不十分」と考えていたが、開戦直前に、新たな決議がなくても合法と司法判断を変えたという。理由は、明確な判断を必要としていた軍部や官僚への配慮だった。「戦場に派遣されるのに、もしかしたら合法、もしかしたら合法ではないかもしれない、という判断では十分ではない」。

29日に公聴会に出席したブレア元首相はフセイン元イラク大統領の危険性を繰り返し、イラクへの武力行使を「今でも正しかったと思っている」と述べた。

政府文書の「45分で実装配備できる」という箇所については、「諜報情報は「非常に信ぴょう性の高い」ものであると当時確信しており、イラクが大量破壊兵器の開発を継続していたと「疑いなく」信じていた、と述べた。「情報自体の信ぴょう性は低かった」と委員が指摘すると、元首相は「嘘でも、陰謀でも、欺瞞でもないーこれは決断だった」、フセイン元大統元大統領に「破壊兵器の計画を再開させるリスク」を取らないことを決断したのだ、と答えた。 

シリア危機を押しとめたのは

イラク戦争について、開戦から10年余が過ぎても、国民の間には「国際法を無視した戦争」、「政権に嘘をつかれた」という思いが消えていない。

それが如実に現れたのが、昨年夏のいわゆる「シリア危機」だ。シリア政府が反政府勢力に化学兵器を用いて攻撃したという報道を元に、米英はシリアに対して懲罰的な武力攻撃を行う一歩手前まで行った。(この件について、中東関係に詳しい方にはまた違う見方があろうかと思う。ここでは、英国から見た経緯を記してみたい。)

キャメロン首相は攻撃開始に向けての十分な支持が下院議員らから受けられることを想定し、攻撃を可能にするための法案を提出した。ところが、審議の直前になって、野党労働党側が与党支持を撤回。労働党はイラク戦争時の政権党だった。

労働党の態度急変は、多くの国民が武力攻撃を不支持であることが原因だった。イラク戦争の影が国民の心に落ちていた。国連を通じての合意がない、米英主導の武力攻撃に対して、嫌気感情が強くなっていた。

法案は否決され、キャメロン首相は翌日の新聞で影響力の低下を批判された。米国とともに攻撃ができなくなったことで、米英間の「特別な関係」が危うくなったという見方が出た。

しかし、オバマ米大統領は英下院の動きを見て、米国会でも同様の法案を審議すると発表。その後、紆余曲折があり、ロシアの仲裁もあって攻撃は実現しなかった。世界最大の軍事力を持つ米国の勇み足を英国(やロシア)が止めた格好となった。

国家がかかわる事項の中でも最も真剣度が問われる戦争・武力攻撃の是非に、メディア報道と世論が大きな役割を果たした一例となった。イラク戦争という多大な犠牲を払った後の結果ではあるがー。

最後に

英国メディアの報道を見ていると、権力者側が出したがらない情報を市民のために暴露・公開しようとする努力の重要さを痛切する。

日本の特定秘密保護法を含め、各国の秘密法、公的機密維持法はしてはいけないことや罰則を列挙するため、文章だけを読んでいると萎縮しがちになるが、日本のメディアが市民のために、そして市民として生きる自分や家族、同僚、友人たちのために、果敢な報道を続けることを望んでいる。(敬称略)

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以上、日本民間放送連盟の研究所が出している「海外調査情報 VOL9」(2014年3月)に、「国家機密と報道」というテーマで書いた拙稿に補足しました。

長い記事をお読みいただき、ありがとうございました。

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参考

「英国メディア史」(中央公論新社)、小林恭子著

「ケリー博士の死をめぐる BBCと英政府の確執 -イラク文書疑惑の顛末」(東進堂)、蓑葉信弘著

「イギリス現代政治史」(ミネルヴァ書房)、梅川正美、阪野智一、力久雅幸編著

「ブレアのイラク戦争―イギリスの世界戦略 (朝日選書) 」梅川 正美、 阪野 智一著

「放送研究と調査」2004年8月号より 「ニール・リポート、BBCのと報道のあり方を提言 -ギリガン事件の教訓からー」、中村美子著

ハットン委員会(アーカイブ版)

http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20090128221546/http://www.the-hutton-inquiry.org.uk/index.htm

バトラー委員会の報告書(PDF)

http://image.guardian.co.uk/sys-files/Politics/documents/2004/07/14/butler.pdf

チルコット委員会

http://www.iraqinquiry.org.uk/

チルコット委員会のタイムライン(BBC)

http://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-12224606

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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