人を正しく処遇する方法について
企業が人を処遇するについては、その処遇の正当性を説明できなければならず、人が処遇を受け入れるについては、その処遇の正当性に納得していなければならない。それはそうに違いないが、そのような双方合意の理想的な成立は、現実に、あり得るのか。
正当性の根拠は合意
企業と個人が処遇について完全に合意し得るかどうかは、正当性と合意の定義に依存するのだと思われます。実は、正当性と合意とは同じことです。合意があるからこそ、正当性が認められるからです。故に、論点は、合意とは何かということです。
原理的に、完全な合意とは、一対一の関係、即ち、企業と一個人の雇用契約のなかでしか成立し得ない。ここが企業人事の一番厄介なところです。
実のところ、企業と一個人の間の純粋な雇用契約など、今日の社会では、あり得ないわけです。それは、一方で、雇用関係が特別法によって高度に規制されているからであり、また、他方で、仮に規制がないとしても、企業という人の集団を前提にした契約になるほかないのですから、企業と一個人との間の一対一の関係は実務的に不可能で、企業と人の集団との間の一対多の関係にならざるを得ないからです。
そうしますと、企業と個人との直接的な合意というのはあり得なくて、個人の立場からいうと、企業の人事処遇制度を受け入れかどうかという問題と、その制度のなかでの自己の評価の妥当性について納得するかどうかという問題と、その二つしかないわけです。
他方、企業の立場からいうと、各個人との直接的な関係はなくて、あくまでも人事制度という客観化され標準化された仕組みを介してしか関係し得ないわけで、その制約のなかで、個人ごとの特性を活かした処遇を考えるほかないのです。
さて、そういうことならば、企業と個人の間の完全な合意など事実上不可能で、そこには、多かれ少なかれ、双方に不満を残す場合が多いはずです。それが現実社会の実情でしょう。もっとも、そうした不満を企業内の前向きの活力の方向へ導くところが企業経営の要諦かもしれず、なかなか機微に富んだ世界かもしれません。
「当社規定により優遇」
そうした事情から、よく求人広告にある「当社規定により優遇」という意味不明な慣用表現ができてしまうのです。
求人広告に「当社規定により優遇」と書くのは、おそらくは、全く無意味な慣行なのでしょうね。馬鹿げているので、止めたほうがいいと思いますが、慣行とは、大体が、そういうものでしょう。しかし、上にいったような背景を考えると、そう書かざるを得ない気持ちはわからないこともない。
雇う側の企業の気持ちとしては、能力や経験に応じて優遇したいということでしょうが、いかに優遇とはいっても、例外的な取り扱いはできず、人事制度全体の拘束のなかでしか処遇できないことをいっているのです。それはそうでしょうね、公正公平性の観点からも、客観的な制度が先になければならないのですから。
企業の風土という規律
さて、合意の問題に戻りますが、個人の立場からすると、企業の人事制度を受け入れるかどうかという受動的な意味しかもたないのでしょうか。企業の立場からすると、受動的では物足りないわけで、各個人に、積極的に、人事制度の意味を認めてもらわないと困るのです。そのため、結局のところ、人事制度の要諦は、制度の設計よりも、制度の運用を通じた制度の定着にあることになるのです。
これは当然のことです。企業における人材管理(管理というと、統制的な響きで十分に意を尽くせませんが、要は、英語のマネジメントのことですから、経営的管理のことです)とは、人事制度の管理なのではなくて、人事制度という客観的準則のもとでの人材の管理なのですから、現場における個人ごとへの具体的適用こそが重要なのです。
ところが、現場における個人ごとへの具体的適用といってしまうと、ただちに、人事制度の客観性との間に、どのようにして折り合いをつけるのか、という問題を生じます。個別具体的な適用が、個別具体的であるにもかかわらず、企業内で一貫したものであるためには、人事制度の裏にある理念、あるいは、より広く企業の経営理念が企業内に定着していなければならない。定着というのは、企業の風土や伝統、社風、あるは雰囲気といったような、目に見えないながらも客観性のあるもの、つまり、ある種の不文律(人事制度のように文書化されていない規律)として、理念が化体していなければならないということです。
私は、そのような社風のようなものも含めて、企業が内部の人に提供できる、あるいは提供すべき環境(有形無形の資産の有機的な結合)と考えています。
参画意識
ところで、社風や企業文化や環境などというものは、企業の中の各個人の働きによって形成され、維持され、進化発展させられていくものですから、それは、個人にとって、外部のものであると同時に、個人を内部の要素として含むものでもあります。企業としては、企業理念が企業内の人材にとって外部のものであっては困るわけで、その理念の形成と維持発展について、各個人の主体的関与による参画を求めたいわけです。
個人の立場からいえば、企業に参画するということは、企業の人事制度を通じて企業に主体的に参画することです。企業の立場からいえば、企業内人材の全てについて、それぞれの機能において、程度の差こそあれ、何らかの参画意識を思ってもらいたいわけです。
参画ということは、各個人が、企業なり企業内の制度の要素として、その一部を構成するということですから、換言すれば、そこには、程度の差こそあれ、何らかの積極的な関与(英語でいう必要はないと思うのですが、世の中では、なぜか英語で、エンゲイジメントengagementとかコミットメントcommitmentとか呼ばれます)がなければならないということです。個人と企業の間の合意の話に戻れば、その関与のあり方が合意の実質なのです。
プラグマティズムの発想
唐突ですが、ケーキを公正公平に二人の間で分割する方法を考えましょう。これ、実は、いたって簡単な話で、一方の人が自分の好きなように包丁を入れて二つに分け、他方の人が二切れのうち自分の好きなほうを先にとればいいのです。
なぜ、これが公正公平な分割であるかというと、双方から不公正や不公平という批判は生じ得ないからです。そして、公正公平ということは、社会的な合意の形成にすぎず、合意とは反論の不可能性のことだからです。双方が不公平だとの反論ができない以上、双方が公平だと認めたのと同じになります。
これは、プラグマティズムpragmatismの哲学であり、自分の哲学的立場です。よく考えていただいたらわかるように、二人でケーキを紛争なく分け合うということが課題ですから、その課題の実現に対して最適であることが大切なのです。その視点にたったとき、物理的な意味での正確な二分割に何の意味がありましょうか。
敢えて、物理的に正確な二分割に挑戦するならば、ケーキが原形をなくして完全均質になるまでミキサーにかけて、その後、精緻な計量によって、そのどろどろした物質を二等分するしかない。もはやケーキでないものを正確に二分割しても、社会的な意味はないでしょう。
哲学徒としての私は、ここで、哲学論に完全に脱線してしまいたい衝動に駆られますが、我慢しておきます。ただ、このケーキ二分割は、社会的意味における反論不可能性に立脚しているのであって、数学的二分割が論理的意味における反証不可能性に立脚するのと構造的には同じ地平にあると考えていることだけを述べておきます。
話を元に戻せば、このケーキ二分割の例でいけば、双方は、一方は二つに切り、他方はどちらかを選ぶというというふうに、一つの事案に別の立場で積極的に関与しているわけで、その双方の関与が双方の公平公正性に関する合意を完全なものにしているのです。
選択や自己申告
そこで、結論としての問いですが、人を正しく処遇する方法について、人事制度の運用における企業と個人の双方の関与とは何でしょうか。
実は、特に目新しいことではありません。世の中の一つの方向は、選択型や自己申告型です。一方で、企業は明らかに人を選択しているのです、採用にしても、登用にしても、異動にしても。他方で、個人の側から選択できるかというと、希望というような弱い意思表示はあり得ても、職務や処遇を選べるというほどの積極的な関与は、企業の立場として認めにくい。ただ、方向性としては、個人の側の選択の範囲は拡大しつつあるのだろうと思われます。
人事制度の運用において、個人の選択範囲を大きくしていけば、個人の関与を通じて、企業と個人との間の一対一の関係を作ることができていく、これが一つの方向なのでしょう。実際、個人の選択と企業の選択が人事異動や処遇面で一致していれば、それは、もう完全に企業が人を正しく処遇したことになるのだと思われます。少なくとも、個人において、不平不満の余地がないという意味では、完全な合意でしょう。
現実の難しさ
しかし、ここに、いくつかの問題があります。第一に、正しい処遇であるかどうかは、そのような人事政策が企業の成長に貢献するかどうかという結果によって評価されるべきではないのか。
その通りです。しかし、結果は事前にはわからない。いえることは、あるいは企業として管理できることは、人は、正しく処遇されているとの自覚と確信のもとで、自己の能力の最大値を発揮する、そのような個人の行動様式を信じることだけではないでしょうか。それが、人事制度の限界です。
第二に、企業と個人の間に直接的関係ができて、その結果、公正公平感が醸成されてくる一方で、他方では、個人と個人との間に、軋轢といいますか、不公正不公平感が生まれていく可能性があるのではないのか。
それまた、その通りの危険性があるというほかない。その解決方法は、個人の努力によって、同僚の信頼を集めていくということしかないでしょう。そして、その努力の成果を個人の実力というのではないでしょうか。その意味で、実力ある個人の集合として、企業は成長していくのです。
第三に、現実の例をみると、個人の関与とはいっても、表面的に合意を擬制しているだけで、実のところは、企業側の提示に対して、仕方なく積極的な関与を約束させられているだけではないのか。
実態として、そういう例は少なくないのでしょう。そのように懸念します。要は、経営の質の問題です。