藤原伊周は、本当に藤原道長を殺そうとしたのか? その真相を考える
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、藤原伊周が武士を率い、金峯山に詣でていた藤原道長を暗殺しようとする場面が描かれていた。伊周は本当に道長を殺そうとしていたのかを含め、真相について考えてみよう。
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藤原伊周は父の道隆が栄耀栄華を極めたので、若くして大出世した。おじの道長(道隆の弟)は伊周より年長ながら、後塵を拝することになったのである。しかし、道隆・道兼兄弟が相次いで亡くなると、後継者として内覧の座を獲得したのは、道長のほうだった。
以来、伊周は道長と対立したが、長徳の変(伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に矢を射た事件)により、弟の隆家ともども失脚し左遷された。その後、伊周らは許されたが、往時のような威勢はなくなり、もはや挽回する可能性が乏しかったのである。
唯一の望みが姉妹の定子(一条天皇の中宮)だったが、その定子も亡くなってしまう。一条天皇と定子の間には、後継者の候補となる敦康親王がいた。しかし、道長は娘の彰子を一条天皇の中宮とし、虎視眈々と勢力基盤の強化を狙っていたのである。
ところが、彰子はなかなか子に恵まれず、それが道長の最大の悩みだった。そこで寛弘4年(1007)8月、道長は自ら金峯山(奈良県吉野町)に参詣し(御嶽詣)、彰子の懐妊と出産を祈願しようとしたのである。
道長が参詣すると知った伊周・隆家兄弟が、平致頼を差し向けて暗殺しようとしているとの噂が流れた。噂を知った朝廷は、勅使を道長のもとに派遣したが、結局は何事もなかったのである。
一方の伊周に対しては、「伊周が道長を暗殺しようとしたという噂が流れている」と報告する者がいた。驚いた伊周は、ただちに道長に弁明しようとしたが、対面したときの態度はかなり焦った様子だったという。
道長は伊周に双六をしようと提案し、二人は夜明けになるまで熱中したと伝わっている。つまり、道長自身も、伊周を疑っていたわけではなかった。その後、伊周は処罰されていないので、道長暗殺計画は単なる噂だったと考えてよいだろう。
翌年の春、彰子は懐妊し、9月に敦成親王を産んだ。のちの後一条天皇である。道長は願いが通じたのだから満足だったに違いない。彰子の出産は、藤原氏の繁栄を約束する出来事だった。