牛肉を食べない人のいる台湾で牛肉麺が定番メニューになるまで。
牛肉麺(ニューロウミエン)といえば、一口大の牛肉がのった汁麺で、台湾グルメのランキング上位にあがる定番メニューだ。街のあちこちにその名を冠した店があり、人気店は昼時になると長い行列ができる。ところが−−。
「私は牛肉を食べませんので、皆さんでどうぞ」
結構な頻度で牛肉に箸をつけない台湾人に出会う。日本で食べない理由といえば、嫌いか食物アレルギーかの二択だ。理由を尋ねると、そのどちらでもない。台湾には違う選択肢がある。牛肉を食べない人のいる台湾で牛肉麺が定番メニューになったのは、どういうことなのか。素朴な疑問を出発点に取材を始めた。
水牛と台湾農業の関係
「祖父がコメ作りをしていて、一緒に働いてきた牛を食べるなんてとんでもない、うちでは牛肉は食べるなと言われて育ちました」
こう話すのは、30代の台湾人男性だ。祖父のパートナーだった牛の肉が彼のうちの食卓に並ぶことがない。牛肉を食べない台湾人に理由を尋ねると、たいてい彼と同じ答えが返ってくる。
台湾の稲作風景は、2004年に台湾で公開されてヒットしたドキュメンタリー映画『無米樂(ウーミーラー)』に映し出されている。農家のおじいさんたちの姿や話を丁寧に追っている。台湾に伝わってきたコメ作りの様子、WTO加盟による海外米の輸入開始が農家に与える影響など、台湾農業の課題を浮き彫りにした。台湾の田んぼと水牛が共にあった姿を鮮やかに見ることができる。
だがデータによると、1956年には約33万頭いた水牛が1982年4万7,113頭、2005年には3,538頭へと減少した(出典:「由台灣水牛的保種談水牛的危機與契機」)。1960年代から農業の機械化に伴い、機械が牛に取って代わってしまっている。
日本でも、その昔、牛や豚など四つ足の動物を食べるのは禁忌とされていた。今の日本でそれを理由に食べない選択をする人に、少なくとも筆者は会ったことがない。日本と台湾で、何が違っていたのだろうか。
日本統治時代に始まった食習慣
日本統治時代(1895~1945)の台湾に生きた人々をテーマに取材執筆を続けるコラムニスト・陳柔縉さんの著書には、台湾における牛との距離感が次のように記されている。
台北市内にある陳さんの仕事部屋にお邪魔した。部屋の真ん中に広々とした作業机が置かれ、膨大な資料が重ねてある。そして、陳さんは整理されたパソコンの画面を開きながら、日本統治時代の牛肉について説明してくれた。
「日本人の統治が始まるとすぐに、台湾での牛肉販売が始まりました。牛肉が食べられるようになったのは、それからで、神戸牛と明記された当時のポスターが残っています。市内には牛の食肉処理場もありました。今では老舗になった洋食レストランのメニューが牛タンです。日本統治時代の台湾で牛肉というと、洋食の概念だったということですね。別の食堂のメニューを見てみましょうか」
そういって1枚の画像を見せてくれた。それは1930年代に台湾で1、2を争うレストラン「江山楼」のメニューである。当時の政財界の名だたる名士も利用したとされるレストランで、台湾料理が売りだった。メニューには150品以上の品目が並ぶ。鶏肉、鴨肉、カニ、すっぽん、うなぎ、イカ……牛肉のふた文字は、ついぞ見られなかった。陳さんは続ける。
「小籠包もですが、牛肉麺は台湾で歴史的に皆が食べてきた伝統の料理というよりは、ビジネスとして成功した例です。というのも以前、私は牛肉麺の人気店が並ぶ永康街に住んでいましたが、牛肉麺フェアが行われた途端、店の前に長い行列ができるようになったんです。さらに2012年にMRT東門駅ができてから列がより長くなった。ですから、フェアがきっかけだと思いますよ」
牛肉麺とフェアの始まり
牛肉麺はいつ食べられるようになり、牛肉麺フェアとはどんなイベントなのか。2つの答えを知るため、専門店へ向かった。
台北駅の南側に創業からもうすぐ70年という牛肉麺店がある。店の名は、清真黄牛肉麺(チェンジンホアンニューロウミエン)。2代目のご店主、張玉山さんは「台北ではうちが一番古いんじゃないかな」といいつつ、牛肉麺の由来を教えてくれた。
「中国国民党が大陸での争いに負け、1949年以降の台湾には大量の兵士たちが逃れてきました。牛肉麺はその時に中国から持ち込まれた食べ物です。台湾へ渡ってきた人たちの数は非常に多かったし、すでに牛肉を食べる習慣がありました。私の父も1949年に中国の山東省から台湾へ渡ってきた1人で、その年から屋台で牛肉麺を売り始めました。牛肉麺を作るのは、それほど難しくない。誰でも作れる。台北に牛肉麺の店が多いのは、作れるぞ、じゃ、店を出すか、という具合です。それでどんどん増えていきました」
牛肉麺フェアについて知っているか聞いてみた。
「始まったのは馬英九が台北市長だった頃です。うちは初回の協力店でした。フェアではお客さんがランキングを決めるのですが、結果発表の後、一気にお客さんが増えました。あんまり増えすぎて常連さんから入れなくなったとクレームを受けたので、2回目以降、うちは参加していませんけどね」
もう一つ、張さんに素朴な疑問をぶつけてみた。数多ある屋台料理の中でも、なぜ牛肉麺が選ばれているのか、である。
「日本の大阪を旅行したら、必ず食べる物ってありますよね。台湾でも、新竹市ならビーフン(米粉)、台南市ならシチュー入り食パン(官材板)といったように、その街を代表するひと品がある。けれども、台北にはコレといえる名物がありませんでした。牛肉麺の店は台湾で一番多いこともあって、台北に来たなら牛肉麺を食べよう、という話になったんじゃないかな。一時はパイナップルケーキなんて話もあったみたいですが、それは南部のものだと反対されたようです」
台北牛肉麺フェアが果たした役割
フェアがスタートしたのは2005年である。開催直前の新聞に、牛肉麺が選ばれたきっかけを見つけた。
フェア会場となったのは、花博公園だ。ここは年間を通じて数々のフェアが行われる広大な敷地を持つ。初回は計50店舗が参加、約1万人が来場した。期間中、牛肉麺を扱う店舗の売り上げは2〜3割伸びたという。参加店舗数は年を追うごとに増加し、会場数も拡大、最終的に第10回となる2014年には、参加店舗は145、約5万人が来場するまでになった。
フェアの主催元だった台北市商業処の副処長・江美玲さんに話を聞いた。
「昔は、眷村(けんそん)と呼ばれる軍人村に暮らすお母さんたちが牛肉麺を作っていました。中国にいた頃の思い出の料理でしたが、そのうちに家庭料理となりました。2005年に食をテーマにしたフェアを行うことになった際、数ある中でも牛肉麺を選択したのは、やはり当時を懐かしむ思いもあったと思います」
江さん自身は、台湾で牛肉が受け入れられていく過程を実体験として持つ。
「私の実家も田んぼを持つ台湾の農家でした。ですから、田んぼと牛の姿は、子どもの頃の風景でもあります。以前は祖父母や両親は牛肉を食べませんでしたが、台湾で洋食が受け入れられるようになるのにあわせて、口にするようになりました」
ところで、牛肉麺フェアは2014年を最後に行われていない。
「2005年から10回に渡って開催しました。この間、民間の手によって牛肉麺協会が設立され、海外のグルメ博覧会でも取り上げられるメニューへと成長しました。知名度も高まり、成熟してきたわけです。そこで、2016年からは牛肉麺協会が開催するフェアへの補助金支給や特定のメニューに限定しないグルメフェアといった、台湾全体のグルメを紹介する施策へと発展させました」
6.5%から生まれた名物グルメ
人気店には、昼時ともなると店前にずらりと行列ができ、店内には客の話す英語、広東語、韓国語が飛び交う。国際的に認知された証だ。
牛肉麺の味は、店によって異なる。一般的には、やや太麺で一口大の牛肉がのせられた汁麺だ。スープは2種類で清燉(チンドゥン)と呼ばれるタイプは、水から牛肉を煮ていくあっさりめのスープだ。もう一方の紅燒(ホンシャオ)は、牛肉を味付きのスープで煮込み、ラー油の赤みがかったスープ。一見かなり辛そうに見えるが、色合いほど辛さを感じない。
肉の煮込み具合や口に入れた際の感触、スープの味付け、麺の太さなど、店によっていろいろなのは、日本のラーメンと実によく似ている。
日本統治時代に食されるようになった牛肉の消費量は、徐々に増加してきた。データによると、1960年の台湾人1人あたりの年間消費量は0.301kgに過ぎない。それが、1992年には2.44kg、2016年には5.69kgと増えている(行政院農業委員会調べ)。さらに、こんな一文を見つけた。
ちなみに日本人1人あたりの年間食肉消費量は約30kgで、鶏肉12kg、豚肉12kg、牛肉6kgという内訳だ(参考:農畜産業振興機構)。全体消費量はまるで及ばぬものの、比率は4:4:2で、牛肉の消費割合は台湾のおよそ3倍になる。
牛肉麺は、6.5%という食肉全体の消費量の中、企業努力はもちろん、多くの人の尽力で定番となったメニューだ。ただ、そのメイン食材である牛肉を食べない台湾人も多く、背景には、禁令や禁忌といった歴史的な経緯がある。日本とは違った食文化の奥深さを垣間見られるひと品なのだ。