「表現の不自由展・その後」中止事件で問われたことは何なのか
8月3日夕方、大村秀章知事と津田大介さんの会見をネットで見続けた「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」という展示をめぐって前日から大きな騒動になっていたのだが、ついに主催者側が中止を発表したのだ。
表現が不本意な形で中止になってしまう日本における「表現の不自由」の現状について社会に訴えようという趣旨の展示が、それ自体開催3日で中止になってしまうという、ある意味で深刻な結末だ。
その中止発表の直前に、私の属する日本ペンクラブでは展示継続を希望する声明を発表していた。中止発表と継続希望の声明が一緒というのはどうなんだと思ったが、新聞などは中止発表に抗議する声明のように報じてくれたので、逆にインパクトが強くなった。
http://japanpen.or.jp/statement0803/
実行委員会が一方的な中止に強く抗議
ついで中止決定を受けて、「表現の不自由展・その後」の実行委員会メンバーが抗議声明を出した。事態はめまぐるしく展開している。この抗議声明を読むと、中止をめぐる経緯がわかるので、全文を以下に貼り付けよう。
《「表現の不自由展・その後」の一方的中止に抗議する
あいちトリエンナーレ2019実行委員会会長の大村秀章知事と津田大介芸術監督が、「表現の不自由展・その後」を本日8月3日をもって展示中止と発表したことに対して、私たち「表現の不自由展・その後」実行委員会一同は強く反対し、抗議します。
本展は、2015年に私たちが開催した「表現の不自由展」を見たジャーナリストの津田大介氏が、あいちトリエンナーレ2019でぜひ「その後」を開催したいと、私たちに依頼したものです。その意欲と理念に共感した私たちが企画やキュレーションを担ってきました。
今回、電話などでの攻撃やハラスメントがあり、トリエンナーレ事務局が苦悩されたことに、私たちも心を痛め、ともに打開策を模索してきました。しかし、開始からわずか3日間で中止するとは到底信じられません。参加してくださった16組の作家のみなさん、企画趣旨に理解を示してくださる観客のみなさんに対する責任を、どのように考えての判断なのでしょうか。
今回の中止の決定は、私たちに向けて一方的に通告されたものです。疑義があれば誠実に協議して解決を図るという契約書の趣旨にも反する行為です。
何より、圧力によって人々の目の前から消された表現を集め、現代日本の表現の不自由状況を考えるという企画を、その主催者自らが、放棄し弾圧することは、歴史的暴挙と言わざるを得ません。戦後日本最大の検閲事件となることでしょう。
私たちは、あくまで本展を会期末まで継続することを強く希望します。
最後に、今回の一方的な中止決定に対しては、法的対抗手段も検討していることを申し添えます。 2019年8月3日 「表現の不自由展・その後」実行委員会
アライ=ヒロユキ、岩崎貞明、岡本有佳、小倉利丸、永田浩三》
津田さんも以前からの知り合いだし、実行委員会の永田さんや岩崎さんもしょっちゅう顔を合わせている知り合いだ。さらに作品を出品した人たちにも知り合いが多い。それぞれが良かれと思ってやったことが、こんなふうに中止になってしまって本当に残念だ。
もともとは4年前に小規模に開催されたイベントだった
もともとこの「表現の不自由展」は4年前に、実行委員会のメンバーが都内で手作りで小さな展覧会をやったものだ。発表したが中止になってしまったような表現を集めて展示し、表現の自由の現状について考えようとしたものだ。それが予想以上の反響を呼び、津田さんが今回、「あいちトリエンナーレ2019」という大舞台の一つの企画として拡大再現した。
小規模の展覧会だったものを大きな舞台の公共施設でというのが津田さんの思いで、それ自体はもちろん全面的に良いことだ。ただ私がその企画を聞いてちょっと気になったのは、どう考えても舞台が大きい分だけ5年前にはなかったような風圧やハレーションが起こるだろうということだった。
4年前のような小さなイベントならそんなに大事になる可能性も低いが、今回は大規模なイベントだし、展示の中に韓国の少女像があったから、大丈夫なのかと心配した。
津田さんとしては、あくまでも議論の素材を提供するという意図だと語っていたが、その意図をかなり丁寧に、観客に説明するような工夫をしないと、炎上状態になるのではと危惧した。
というのも周知のように、今は日韓双方のナショナリズムが激しくぶつかりあっている緊張状態の渦中であり、その象徴というべき少女像は、5年前と比較にならないくらい大きな意味を持っているからだ。映画「主戦場」の冒頭シーンを見ればわかるように、少女像をめぐっては日韓ばかりかアメリカでも議論になっている。ましてや日韓の今の緊張状態を考えれば、騒動になる恐れはおおいにあった。
その予想は不幸にも的中し、マスコミ報道で紹介されたとたんに議論がヒートアップした。8月2日には河村名古屋市長の発言を引き金に、菅官房長官まで発言する事態になり、激しい議論となった。
なかには京都アニメーションのような事件を引き合いに脅迫してくる者もいたという。
結局、それが予想を超える事態だと判断した大村知事と津田さんによって、少女像だけでなく「表現の不自由展・その後」自体が開催3日で中止になってしまったのだった。
中止がもたらす影響は小さくない
これはまさに現在の日本社会の言論・表現をめぐる状況をわかりやすく示した事態だ。ただそんなことを言ってすまないくらい、この中止の影響は小さくない。実行委員会が法的措置をとるとまで強い抗議をしたのは当然だと思う。
問題は、4日以降、マスコミもこの中止決定を大きく報じるだろうし、それを受けてこの問題がどんなふうに議論されるかだ。このまま終息させてしまっては、今後、萎縮の空気が広がるのは避けられない。
実際、この何年か、安倍「一強」政権への「忖度」が進み、公共の場での政権の意にそわないような集会や言論に対しては、会場が使用中止になったり、まさに「言論の不自由」な状態がまん延しているからだ。今回出展されていた、埼玉の「9条俳句」問題などまさにそうで、そういう現実を考えてほしいという今回の展示そのものが中止になるというのでは、ほとんどブラックジョークと言ってよい。
今回の「表現の不自由展・その後」に出品していた表現者の中には、このまま中止してしまうとさらに状況は悪くなるので、抗議の意思表示として会場を代えて展示やシンポジウムを行ってはどうかという意見も出ている。
中止という決定がなされた時点で、今後、言論表現が大きく後退しないようにするためには何をすべきなのか。ここは大事な局面だ。
まずは今回の事態の責任者でもある津田さんには、出展した表現者たちに説明責任があると思うので、それをオープンな場で、言論表現のあり方そのものを議論するような場にしていただけないかと提案したい。中止を決めてこのまま終息というのでは、それこそ言論表現の自由を死滅させることにもなりかねない。
これまでも言論表現の自由にとって後退を意味する歴史的局面はいくらでもあった。しかし、たとえ後退の局面であっても、どう後退するかによって、それが今後に与える影響は全く違う。多くの人が知恵を出し合って、表現の不自由を考える展示が不自由を増幅するような結末にならないようにしてほしい。