「私は金正恩のオシメを換えた」米亡命の叔母が証言「世襲のレールは8歳から敷かれていた」
金正恩第1書記の実母である故・高英姫(コ・ヨンヒ、2004年に死亡)さんの妹、高英淑(コ・ヨンスク)さんと夫のイ・ガンさんが米紙ワシントン・ポストのインタビューに約20時間にわたって応じ、金正恩の幼少期やスイス留学時代の様子を語っています。2人は1998年にスイスから米国に亡命し、現在は名前を変えて米国でクリーニング店を営んでいます。
高英淑さんの人生が大きく変わったのは75年のこと。舞踏家の姉、高英姫さんが後に総書記となる金正日(1942~2011年)に見初められ、「3番目の妻」になったのがきっかけでした。「私は姉に非常に近かった。妻になるのは大変です。だから信頼できる私に助けを求めてきたのです」と高英淑さんは証言しています。
金正日の指名で、高英淑さんはイ・ガンさんと結婚、平壌の大豪邸で金正日と高英姫さんと暮らすようになります。キャビアをおつまみにコニャックを炭酸水で割って飲み、金正日と一緒にメルセデス・ベンツの高級車に乗るような贅沢三昧の日々を送っていました。
金正恩が生まれた年について1982年とか、83年と報道されていますが、高英淑さんは「彼(金正恩)が生まれたのは84年。長男が生まれたのと同じ年なので間違いありません。彼と長男は生まれた時から遊び友達でした。私は2人のオシメを換えていました」と言います。
金正恩が金正日の後継者として正式に指名された2010年当時、金正恩はまだ26歳だったことになります。
1992年、8歳の誕生日を迎えた金正恩は星が飾られた将軍の制服を与えられ、お祝いのため出席した高級将校の栄誉礼を受けます。この時から金正恩はいつの日か自分が最高指導者になることを知っていたと高英淑さんとイ・ガンさんは振り返っています。
金正恩は問題児ではありませんでしたが、気が短く、非寛容でした。母親の高英姫さんが遊ぶのを止めて勉強するように注意すると、ハンガーストライキをすることもあったそうです。92年に高英淑さんとイ・ガンさんは、金正恩の兄の金正哲を連れてスイスのベルンに渡ります。96年には12歳になった金正恩もベルンにやってきます。
「私たちは普通の家で暮らし、普通の家族のように振る舞いました。私は母親役でした」「金正恩に普通の人生を送ってもらいたかったので、友達を家に連れてくるように言いました。私は子供たちのためにお菓子を作りました。彼らはお菓子を食べ、レゴで遊んでいました」
金正恩はスイス留学時代、バスケットに夢中になり、マイケル・ジョーダンの大ファン。よくバスケットボールを抱いて寝ていたようです。高英淑さんは金正恩や金正哲を連れて現在のディズニーランド・パリやアルプスのスキー場、フランスの川、イタリアの料理店に出掛けたそうです。
高英姫さんに乳がんが見つかった1998年、高英淑さんとイ・ガンさんは3人の子供を連れてタクシーで米国大使館に駆け込み、亡命を申請しました。高英姫さんに万一のことがあった場合、世襲をめぐる権力闘争に巻き込まれるのを怖れたのではないかとみられています。
2人はドイツ・フランクフルトの米軍基地に運ばれ、尋問を受けた後、米国に送られました。金正恩のことは誰も知らなかったそうです。米中央情報局(CIA)は生活資金として20万ドルを提供しました。
毎日12時間働くハードワークで、クリーニング店は成功。3人の子供も大学を卒業し、数学者やビジネスマン、コンピューター科学の専門家として独立しています。高英淑さんとイ・ガンさんは、「金正日の秘密資金で賭博をしたり整形手術をしたりしたというデマを広めた」として脱北者3人を相手取り6千万ウォン(約557万円)の損害賠償を求める訴訟を韓国内で起こしています。
18年間の沈黙を破ってワシントン・ポスト紙のインタビューに応じたのは、脱北者が広めたデマを打ち消すためだそうです。
(おわり)