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「もう無理だった」本気で引退を考えた2年前 Jリーグで輝き放つ30歳・清武弘嗣の今

元川悦子スポーツジャーナリスト
コロナ禍の2020シーズンを走り切る覚悟の清武弘嗣(筆者撮影)

「4年ぶりにケガなく1年間を戦えています」

 セレッソ大阪の清武弘嗣は爽やかな笑みを浮かべた。今季好調のセレッソを力強くけん引するキャプテンは、古巣に復帰してから最良のシーズンを送っているのだ。

 この4年間はケガとの戦いが続いた。負傷を繰り返した2017年は「好きなサッカーを全力でできないことが一番きつかった」ともがき、2018年ロシアワールドカップ落選後には本気で引退を考えたこともあったという。その清武が苦悩の日々を赤裸々に語る。

「もう無理だった」再出発の試合で襲った悪夢

 2018年7月18日、清水エスパルス戦の後半28分、背番号10に異変が起きた。セレッソ復帰後に繰り返していた肉離れが再発したのだ。ロシアワールドカップが終わり、再出発を切ろうとしたリーグ再開初戦で襲った悪夢。清武の脳裏に浮かんだのは「引退」の二文字だった。

――その時の心境を教えてください。

「『仕切り直し』と考えていた初戦で同じところを肉離れしたので、『ホントに引退やな』と思って、おやじ(由光さん)に電話したんです。そうしたら、ちょっと間をおいて『そうか……おまえが決めたならいいよ』と。俺が全力でプレーできない状態だと分かっていたし、つらい気持ちを察していたんだと思います。

 おやじから『子供たちのこれからはどうするんや』とも言われました。『まだ考えてない』と返して、その日は電話を切りましたけど、引退の気持ちは変わんなかった。足が痛くてもう無理だったから。

 数日後におやじから電話がかかって来た時は『日本に戻ってからケガばっかりで、チームや監督に申し訳ない』と言いました。小さい頃から『ケガする選手は計算できないし、使いづらい』と言われていて、ホントにそういう選手になっちゃったなと思ったんです。

 それからまた電話があって『自分のためにやってみたらどうや』と言われて、少し気持ちが変わりました。『足をケガする時はする。全力で走って足がちぎれようがもう関係ないやろ』という言葉を聞いて、『確かにな』と。それからズルズルと今まで来た感じです(苦笑)」

8月1日の湘南ベルマーレ戦で今季初ゴールを決めた(写真:森田直樹/アフロスポーツ)
8月1日の湘南ベルマーレ戦で今季初ゴールを決めた(写真:森田直樹/アフロスポーツ)

 少年時代のサッカー指導者であり人生の師でもある父・由光さんは、清武にとって極めて重要だ。今も父親から送られてくる試合後の「ダメ出し」を1つ1つかみ締めながら戦っている。一番身近に信頼する人の存在があったから、清武は現役を続行できたと言っても過言ではない。

 そしてもう1人、重要な人物がいる。今年8月にユニフォームを脱いだ内田篤人氏だ。

内田篤人氏から「おまえも諦めんな」

――同じようにケガに悩み、一緒に苦しいリハビリをして励まされたんですよね?

「はい。あれだけ大きなヒザのケガをした篤人君がここまでプレーを続けたのは正直、すごいと思いました。俺より状態が悪くて、全力でプレーできずにもどかしい気持ちを抱えながらも、最後の最後までロシアのメンバー入りを目指していましたからね。

 自分はメンバー発表の3週間前にふくらはぎの肉離れをして諦めかけていたけど、『俺が諦めてないんだからおまえも諦めんな』と。ホントに目指している選手が言ってくれる言葉だと思った。それを聞いて最後まで頑張ろうと思いました」

――メンバー発表の時は?

「テレビで会見を見ていましたね。名前は呼ばれなかったけど、後悔はなかった。やれることは全てやったんで、仕切り直しやなって前向きになれました」

――「ロシアでは長谷部(誠=フランクフルト)さんみたいにキャプテンマークを巻きたい」と2014年ブラジルワールドカップ直後に語っていた夢は果たせませんでした。

「叶わなかったですけど、ハセさんから学んだことは多いですね。普段は他の選手からイジられてるのに、引き締めるべきところではチームを締めてくれる。そういうのは大事だなって、ニュルンベルク時代から一緒にいて感じたんです。

 僕も今、セレッソでキャプテンをしていますけど、試合が近づくと締めなきゃいけない時はある。そのタイミングや雰囲気を感じる察知能力がハセさんはすごかった。身近でキャプテンシーを持った人を見られたのは、すごく貴重な経験でしたね」

ドイツ時代にファンと交流する清武(写真:アフロ)
ドイツ時代にファンと交流する清武(写真:アフロ)

 長谷部や内田、香川真司ら日本代表の先輩たちから受け継いだものを自身のキャリアやセレッソに還元すべく、今の清武は奮闘している。チームは首位・川崎フロンターレに大きく水を空けられているが、天皇杯出場枠の2位、アジアチャンピオンズリーグ(ACL)出場圏内の3位は十分に目指せる位置にいる(11月3日現在)。そして、輝きを取り戻した背番号10も今季は5ゴールを挙げ、9月27日のベガルタ仙台戦でのスーパーループは9月のベストゴールにも選出された。ミスターセレッソ・森島寛晃(現社長)に「シンジにあってキヨにないものはゴール」と言われた過去は完全に払しょくしたと言っていいだろう。

日本代表復帰を望むファンからの声に対して

――セレッソで今、こだわっているのは?

「J1のタイトルです。それはセレッソが取ったことのない唯一のもの。自分がいるうちに手にしたい気持ちは強いし、今年はそういう思いを強く持ってシーズンに挑んでいます。そのためにも数字にはこだわりたいので、ゴールとアシストの両方とも2ケタを目指しています。そこまでたどり着いてないですけど、残り試合もまだありますし、頑張りたい。このサッカーを突き詰めたいと思っています」

――ファンからは「日本代表に復帰してほしい」という声も高まっています。

「もう1回代表でやってみたい気持ちはありますけど、攻撃陣には若い選手が多いし、勢いもあるので、自分がそこにパッと入って、よさを出せるか分からないですね。

 振り返ると、日本代表時代はそこまで自分に欲がなかったのかな。真司君とはよく比べられましたけど、代表チームを一緒に作り上げていきたい気持ちが強かったので、ポジションを奪ってやろうという気持ちは薄かったですね」

2017年を最後に代表ではプレーしていない(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
2017年を最後に代表ではプレーしていない(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

――森保監督からもう1回来てほしいと言われたら?

「サッカー選手である以上、代表は目指しています。ただ、若い世代にこれからの日本サッカー界を引っ張ってほしい気持ちはあるんです。今、セレッソで左サイドアタッカーをやっていますけど、『おまえ、もういらないよ』って俺に感じさせるくらいの気持ちと実力を持った若手が出てきてくれたら嬉しいです。

 ポジションを取られるんだったら、俺みたいな選手から取られたいって思います。自分はスピードもないし、1対1も弱いですけど、基礎技術は誰にも負けない自負がある。そういう技術の高い選手から取られるなら、全然いいと思います」

「バトンを渡せたら、ユニフォームを脱ぐ」

――清武選手が「これは」と思う選手は?

「久保(建英=ビジャレアル)君ですね。彼はマジでレベルが高すぎる。技術が高くて、1対1で仕掛けられて、パスも出せるし、視野も広い。スピードもある。すげえなって思いながら見ています。

 仮にそういう若手がセレッソに来たら『絶対負けない』っていう気持ちはある。自分がもう1回、はい上がる意味でもぜひ来てほしい。そうして、『もうバトンを渡せたな』と思えたら、その時は本当にユニフォームを脱ぐ決断ができるのかなという気がします」

 11月12日に31歳の誕生日を迎える清武。30代になった彼は精神的にも落ち着きが生まれ、幅広く物事を見渡せる人間的な幅も出てきた。2012年ロンドン五輪を戦っていた頃はシャイで人前に出たがらず、メディアにも多くを語らなかったが、「あの頃は調子に乗ってたのかな」と本人も笑う。それも含め、さまざまな人生経験が心身ともに充実した今につながっているのだろう。

 清武が見据えるのはセレッソをJリーグのトップにけん引して、次世代を託せる存在を引き上げること。かつてドイツ・ブンデスリーガで名を馳せ、スペインの名門クラブに引き抜かれた男の理想像は高い。その領域に達するまで彼はピッチに立ち、華麗なパフォーマンスを見せ続けるはずだ。

スッキリした表情で今の思いを赤裸々に語る(筆者撮影)
スッキリした表情で今の思いを赤裸々に語る(筆者撮影)

■清武弘嗣(きよたけ・ひろし)

1989年11月12日生まれ。大分県大分市出身。2008年、大分トリニータU-18からトップチームに昇格。2010年、大分のJ2降格に伴い、セレッソ大阪に完全移籍。2011年8月に行われた韓国戦でA代表デビュー、2アシストの活躍を果たす。2012年5月、ドイツ・ブンデスリーガのニュルンベルクに移籍。同年8月のロンドン五輪では、U-23日本代表メンバーとして全試合に出場、44年ぶりのベスト4に導いた。2014年のブラジルW杯にも日本代表メンバーに選出されるが、出場機会は第3戦の後半40分から途中出場しただけに終わった。その後、ドイツ・ブンデスリーガのハノーファーに移籍。2016年にはスペインの名門セビージャに移籍した。リーガ開幕戦では1ゴール1アシストの衝撃のデビューを飾ったが、その後は出場機会に恵まれず、2017年2月にセレッソ大阪に4年半ぶりに復帰した。

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スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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