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”黄金世代と同年”引退発表の元韓国代表FW李同国が語っていた「どん底の兵役時代にハッと気づいたこと」

(写真:築田純/アフロスポーツ)

26日、元韓国代表のストライカー李同国(イ・ドング※2007年に「東国」から改名/全北現代モータース)の引退が発表になった。

韓国代表として105試合33ゴール、いっぽう国内では「最強チーム全北の生けるレジェンド」として知られており、Kリーグとアジアチャンピオンズリーグでの歴代最多ゴール数を誇る。それぞれ228点(547試合)、37点(74試合)だ。

日本戦での劇的なゴールなどがあるわけでもない。ではなぜ日本の読者のこの話題をお知らせする必要があるのか。

日本の”黄金世代”と同年の1979年生まれ。いわゆる「超高校級ストライカー」が幾度もの困難にも”潰れなかった”こと。そして筆者自身20年来韓国のサッカーシーンを取材してきて「インタビューが一番面白かった選手」だということ。スター選手が、なにせ赤裸々に、実直に、自分の苦しかった心情を語ってくれたのだ。

  • 引退を報じる韓国メディア「YTN」

02年に2度徴兵免除の機会を逃す

2005年4月、彼自身が26歳だった頃にKリーグ浦項スティーラースのクラブハウスで話を聞いた。

「ああ、このまま自分は終わるのかな。弱気になってそう思うことすらありました」

2002年秋の苦境を綴ったのだった。

 

浦項工業高で活躍した高校時代から将来を嘱望されていた。韓国では当時も引退直前の現在も「187センチの体躯」に合わせ「シュートセンス」が評価される。98年フランスW杯、99年ナイジェリアワールドユース、00年にはアジアカップとシドニー五輪全てに出場。「ライオンキング」のニックネームで、茶色に染めた髪を揺らしながらプレーする姿からアイドル的な人気も誇った。

  • 若き日の李同国の活躍を報じる「KBS」

しかし01年に運命が傾き始めた。浦項からレンタルで移ったブレーメン(ドイツ)で7試合出場0ゴールに終わる。理由はインタビュー当時26歳だった彼自身もよく分かっていた。

「人生で一度もベンチスタートという経験がなかったんですよ。だから対処法が分からなかった。トレーニングで調子がよく、練習試合でもゴールを決めた。でも他のストライカーの調子がよくて3試合連続でサブになった。たったそれだけでメンタル的に参ってしまって。3試合だから、時間にして3週間ですよ。ほんとにそれだけで」

その後、フース・ヒディンク監督の下での02年W杯のエントリーに残れず。さらにこの年の秋に釜山で行われたアジア大会での優勝を逃した。これが何を意味するのかと言うと「2度も徴兵免除の機会を逃した」ということだ。2年近いトップレベルからの「離脱」はキャリアの邪魔になる。両親が息子の徴兵逃れの工作のために逮捕されるという出来事があったほどになんとか避けたいものだった。

「02年W杯に関しては、焦りが脱落の原因です。怪我していた足首の状態が回復しないままピッチに戻ることを繰り返してしまい。目の前の親善試合での結果を求めすぎました。休めば結果は違ったかもしれません。01年にフース・ヒディンク監督が来て以来、ずっと選ばれていたメンバーのうち、自分とサブのGKの二人だけが最後に脱落したんです」

失意のなか、韓国代表の試合は見ず、勝ち上がりも周囲の熱狂によって知ったという。ベスト4入りの結果、若手選手全てに徴兵の実質的免除が施された。またイ・ヨンピョ、ソン・ジョング、キム・ナミル、そして後輩のパク・チソンらが欧州移籍を勝ち取った。

それでも、その年の秋に行われたアジア大会で金メダルを獲得すれば徴兵は免除だったが――。

準決勝でイラン相手にPK負けを喫した。韓国の最後のキッカーとして「宇宙開発」の失敗シュートを放ったのがイ・ヨンピョ。すでに免除と欧州移籍(PSV/オランダ)を勝ち取った2歳上の「盟友」だった。

李同国が徴兵を終えた後の2005年、ヨンピョが初めて明かしてくれた話があったという。

「オランダでPKのシーンになるたびに、あの釜山のスタジアムの情景を思い出す。特にペナルティ・スポットにボールを置き、GKを見上げた瞬間のことを」

 

この試合後、ロッカールームでは全選手が号泣。李同国は「何をすればいいか分からず呆然とした」。試合後、メディアからは「李同国は軍隊に行ったら終わる」「一瞬のスターだった」と書き立てられた。李を苦しめたのは、周囲の腫れ物に触るような態度だった。結果、自身も弱気になり、「このまま終わるのかな」と思い始めた。

自由時間にやることがなくて…

しかし、その軍隊で思わぬところで転機が訪れた。国軍体育部隊の「尚武(サンム)」に所属していたときのことだ。02年W杯後の制度変更によりKリーグ(1部)でのプレーはなんとか維持できていた。

「最初の2週間に基礎軍事訓練を受けた後は、ひたすらトレーニングと試合という日々でした。朝6時に起床、点呼、全員朝食、午前はトレーニングでその後昼食と休憩。午後にまたトレーニングをやって18時に夕食。その後夜の9時半に点呼、就寝という日々で…」

実は困ったのが、夕食後から9時半までの自由時間だった。

やることがない。

遊びにも行けないし、テレビも観られない。

そこで李同国がやってみたことは…「筋トレ」だった。

「最初は『軽くやってみるか』と始めたんですよ。でもそこまでの考えが大きく変わる風景を目にしたんです。陸軍体育部隊にはサッカー以外にいろんな種目の選手がいます。韓国では人気のない、レスリング、ラグビーなどの選手です。彼らは、ほんとにこちらが驚くくらいガンガン筋トレをやっている。『なんでだろう?』とそれをじっと眺めていたんです」

入隊後、半年ぐらい経ったある時にハッと気付かされた。

「彼らは自分のためにやってるんですよね。自分自身が満足するために。多くの人が注目するような大会があるわけはない。プロもないからたくさんのお金も稼げない…反面、ワールドカップに出られなかったことでふてくされている自分が恥ずかしくなりました。どんなに今の自分がどん底でも、サッカーは多くの方が観てくださる種目なんです。頑張ればお金も多く稼げる環境にある。にもかかわらず『自分はなんて怠けているんだ』と痛感しました。そしてとんでもない恥ずかしさがこみ上げてきた。筋トレをしている他種目の選手たちを直視できないくらいの恥ずかしさです」

自分の名声は過去のもの。一からやり直すという気持ちになった。筋トレの結果、周囲からは「痩せた?」と聞かれたが、じつはウェートは増えていた。プレーの切れ味を取り戻し、除隊後の06年W杯予選アジア最終予選では8試合5ゴールの活躍を見せた。

「軍隊で僕は変わりました。自分をコントロールできるようになった。試合前のコンディション調整はもちろん、メディアの記事にもいちいち腹を立てなくなったんです。周りがなんと言おうと、自分が満足すればよいのだと」

  • 軍隊チーム尚武での李同国。「KBS」アカウント。

2012年、中東からの巨額オファーを断った理由

じつのところ、05年4月のこのインタビュー後にも本人には苦境が続いた。2006年4月にはトレーニング中にキックミスから地面を蹴ってしまい、膝の十字靭帯断絶の重症。ドイツW杯本大会エントリー入りを逃した。07年1月から移籍したミドルスブラ(イングランド)では1年半でリーグ戦23試合出場0ゴールと結果を残せず。08年7月に失意の下にKリーグに復帰したが、当時国内で「銀河系」と呼ばれた城南一和(現城南FC)で活躍できなかった。

 

09年1月、まだKリーグの新進クラブに過ぎなかった全北現代に移籍。周囲から見ると完全に「都落ち」だったが、李は自分を見失わなかった。自分を信じてくれたチェ・ガンヒ監督の下で復活。後にACL優勝2回と準優勝1回、Kリーグ優勝7回というクラブの成長とともに自らもクラブのレジェンドとなっていった。09年から今年の10月27日にかけての全北での444試合出場は当然のごとくクラブ記録でもある。

2012年1月、中東のクラブからの巨額オファーが報じられた。それは事実だったと妻のイ・スジンさんが認めた。当時のTV番組でこんなエピソードを披露している。

「給料を聞いたら、ビルを丸々一棟買えるような金額だったんです(つまり賃貸料収入により引退後も安心できる金額)。でもそれが飛んでいった。主人が首を縦に振らなかったんです。『チェ監督が俺を捨てるならまだしも、俺から監督を捨てるわけにはいかない』と。さすが”私の男だな”と思いましたよ」

自分を知り、自分を貫いた結果、02年W杯メンバーがすべて引退した後も長く現役を続けた。それは思い描いた勲章ではなかったかもしれない。結局欧州の舞台でもW杯でもノーゴールに終わった。しかしその現役キャリアは、「一番のどん底」から掴んだストーリーだったのだ。

  • 近年は「挫折を乗り越えた渋みのある男」「双子の父」としてテレビでも人気を集める

吉崎エイジーニョ ニュースコラム&ノンフィクション。専門は「朝鮮半島地域研究」。よって時事問題からK-POP、スポーツまで幅広く書きます。大阪外大(現阪大外国語学部)地域文化学科朝鮮語専攻卒。20代より日韓両国の媒体で「日韓サッカーニュースコラム」を執筆。「どのジャンルよりも正面衝突する日韓関係」を見てきました。サッカー専門のつもりが人生ままならず。ペンネームはそのままでやっています。本名英治。「Yahoo! 個人」月間MVAを2度受賞。北九州市小倉北区出身。仕事ご依頼はXのDMまでお願いいたします。

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