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センバツ100年物語④わが国での背番号導入第1号はプロでも、大学でもなく……

楊順行スポーツライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

 3月18日から阪神甲子園球場で開催される第96回選抜高校野球大会。第1回大会は1924(大正13)年だから、100周年を迎えることになる。大正、昭和、平成、令和の4元号での開催というわけだが、27(昭和2)年の第4回大会は、大正天皇崩御の国喪に服し、出場校数を前年の16から半分の8校に縮小。開催も4月29日から3日間という異例の時期だった。ただその夏の選手権は、前年同様22代表で行われている。

 現在、記念大会を除くとセンバツの出場校は32で、夏は49代表。北海道と東京が2校ずつ、それに他府県は1校が出場する夏のほうが当然多い。これ、高校野球ファンにとっては常識で夏は78年、春は83年から定着した数だ。だが、実はセンバツの出場校が夏のそれを上回った年がある。

 それは、33年の10回記念大会。優勝は岐阜商(現県岐阜商)だった。センバツは9回大会まで、前年の優勝校が無条件で出場していたが、この年からそれを廃止。それでも、前年優勝の松山商(愛媛)はこの大会に出場しており、これ以後も戦前はずっと、前年優勝校の出場が続いた。優遇制度はなくても、選ばれるだけの力があっということだろう。

なぜか1回限りで取りやめに……

 草創期でおもしろいのは、31年の第6回大会だ。日本の野球界で初めて、背番号が採用されたのだ。投手が1、捕手2、一塁手3、二塁手4……ときて、控え選手はポジションに関係なく10、11、12……だったというから、現在と同じだ。この年の秋には、ベーブ・ルースらの大リーグ選抜が来日。彼らがユニフォームに背番号をつけていたため、一般にも知られるようになったが、中等学校野球ではその半年も前に採用していたのだ。スタンドからでも、グラウンド上の選手がよくわかるように採り入れられたもので、おおむね好評だったが、なぜかこの年限りで取りやめている。

 本格的に導入されたのは戦後になった52年夏の大会からで、センバツでも翌53年に復活している。東京六大学での採用はさらに遅く、59年春のリーグ戦からだ。

 高校野球の背番号は、上記のようにレギュラーのポジションに応じるのが原則。だが、ベンチ入りが20人になった現在、当時に比べて選手層が格段に厚くなり、背番号二ケタの選手がスタメンで活躍するのはふつうだし、投手複数制の浸透により、背番号1以外の投手が実質エースというチームもめずらしくない。

 この背番号、われわれ取材者にとってもなくてはならないものだ。そう、初めて見る選手がほとんどだから、顔と名前が一致するわけもなく、背番号が頼りなのだ。だから背負ったバッグで背番号が隠れていたり、ユニフォームの上着を脱がれたりするとちょっと困るんだよねぇ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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