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香田誉士史監督が母校・駒沢大へ。2006年夏、伝説的決勝の裏話とは①

楊順行スポーツライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

 社会人・西部ガスの香田誉士史前監督が、母校の駒沢大監督に就任する。1971年4月11日、佐賀市出身。佐賀商時代は外野手として甲子園に3度出場し、3年生の夏(89年)にはホームランも放った。駒沢大では、東都大学リーグに通算48試合出場。卒業後は母校・佐賀商でコーチを務め、94年夏に日本一に輝いている。

 95年4月には、駒大苫小牧の社会科教諭・野球部監督として赴任。2001年夏の甲子園出場が、なんと32年ぶりだった。だが初戦突破の壁は厚く、そこから4連敗。ことに03年夏は、4回途中まで8点を大量リードしながら降雨ノーゲームに泣いた。

 その悔しさを知る佐々木孝介主将(現監督)がメンバーに残った04年夏、そして田中将大(楽天)が2年だった05年夏を連覇。06年夏も、早稲田実(西東京)との決勝で延長15回引き分け再試合の名勝負を演じ、限りなく3連覇に近い準優勝と言われた。駒大苫小牧時代は春夏通算8回の甲子園で15勝6敗1分け。夏の優勝が2回、準優勝1回、神宮大会でも1回優勝している(05年)。

 57年ぶりの夏連覇の土台には、我喜屋優(興南監督)の存在があったという。現役時代、大昭和製紙北海道で北海道勢初の都市対抗野球大会優勝を果たした我喜屋は、香田に雪国のチームが全国で勝つためのノウハウを伝授。それを生かした雪上ノックなどが実を結んだのだ。

 香田は08年、鶴見大の監督に転身すると、12年には新たに創設された社会人野球チーム・福岡の西部ガスのコーチ、17年からは監督として都市対抗に5回出場していた。駒沢大は、東都大学野球リーグで1部優勝27回、大学選手権と明治神宮大会出場回数では、最多の出場を誇る名門。近年は、戦国と呼ばれるリーグで1部、2部の往復が多く、昨秋は入れ替え戦を制し、今春の1部昇格を果たしている。

 で、思い出した。かつて西部ガス監督時代、06年夏の伝説的な決勝引き分け再試合について話を聞いたのだ。あらためてスコアを示しておく。

■2006年8月20日/第88回全国高校野球選手権大会・決勝

駒大苫小牧 000 000 010 000 000=1

早 稲 田 実 000 000 010 000 000=1

・11回表の駒苫は、一死満塁からスクイズ。だが三塁走者のスタートを視野にとらえた早実・斎藤佑樹投手が、とっさにスライダーを低めに外して空振り、三塁走者が戻れずにタッチアウトになった。

ふだんはめったにやらないスクイズを……

香田 ふだんスクイズのサインはほとんど出さないんです。だけどあの場面は、強攻してもバットに当たらないと思って、"ふと"サインを出した。ですがウチにはあの試合、まったく流れがなかったんですね。優勝した過去2年は、"ふと"思いついたことが、やることなすことうまくいっていたんです。ただあの試合だけは流れが、甲子園の空気が違いました。

 斎藤君は「スタートが見えたから外した」と話していますが、ウチとしても、外されないために走者がどうスタートを切るか、当然練習はしていたんです。コンマ何秒かスタートが遅ければ、どうなっていたか。でもまあ、やられていたでしょうね。バッテリーに、冷静に見られている感じがしました。走者が死んだあと、打者の岡川(直樹)はレフト前にヒットですが、あれも流れです。

・0対0の8回表、駒苫は三木悠也のホームランで先制する。終盤の1点で、ふつうなら流れがくるものでは……。

香田 う〜ん……なんというか、空気感が違うんです。過去2年の優勝では、負けている試合でも"いつかは波がくる"という空気があった。1回目の優勝のとき(04年)は、前の夏に8対0とリードしながらノーゲームになり、再試合で負けたという非常に悔しい経験をしています。よし、寒くて雪がある北海道でも、地面のあるところには負けんぞ、1年かけて優勝を狙えるチームをつくろう、というつもりでずっとやってきました。それが翌年も甲子園に行き、初勝利を挙げた。そこから、もともと力はありながら自信がなかった子たちが、できるじゃん、オレたち……となったんですね。

 日本一になるための練習をずっとやってきた、という自負はありました。そして1勝したことで、蓄積してきたことに確信を持ったんでしょう。そこから、なんでこんなプレーができるの、というくらいにチームが豹変して一気にいったわけです。そしてあの年は横浜(神奈川)に勝ち、日大三(西東京)に勝った、すると、北海道が勝ち上がっている……と、日に日に北海道の初優勝を後押しする空気になっていき、僕らはそれに守られてやっていたような気がします。

 2年目に関しても鳴門工(現鳴門渦潮・徳島)に逆転勝ちする、東洋大姫路(兵庫)にも、青森山田にも……。それよりあの年は、南北海道大会が重たかったですね。優勝旗を全員で返しに行くぞと、勝たにゃいかん、勝たにゃいかんでやりますから、それは重たかった。このころ、南北海道の代表は僕らが連続していて、周囲はそろって「駒苫倒せ」です。ある冬は指導者講習会で、講師の方が「駒大苫小牧を倒すには」というテーマで話された(笑)。僕もその講習会に出ているのに、そのぐらい強力な包囲網です。

 それに対して「絶対負けねえ」って練習するんですが、実際の試合に絶対はないでしょう。それでも生徒は、甲子園に行きたくて入学していますから、勝ったときはホントにうれしいんですよ。ひとつ肩の荷が下りて、本当に重いかたまりが取れるんです。ですから甲子園はごほうびのようなもので、そこでは君たちがいい顔をして野球をやってくれればいい、となる。この05年も、出場が決まって甲子園入りするころには「あれ、去年と同じ?」というような空気感です。いざ試合になってリードされていても、コイツら、また取り返すんだろうな、みたいな空気がありました。

 でもあの06年の決勝は、1点先制したのに、ちょっと違いました。過去2年と逆で、球場の空気が早稲田を後押ししているんですね。リードしても後手に回っている感じはありました。案の定その裏は、先頭の桧垣(皓次朗)君の二塁打に中継ミスが重なって、三塁に行かれてしまいます。かなり重きを置いて練習してきた中継プレーなのに、このチーム始まって以来というミスでした。それが最後の最後で出て、犠飛で同点に追いつかれ、やっぱりこういう展開か……と思いました。(つづく)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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