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[2023年の高校野球回顧]たった一人の甲子園優勝投手にして優勝監督、死す……その1

楊順行スポーツライター
2019年のセンバツで準優勝した習志野(写真:岡沢克郎/アフロ)

 阪神の38年ぶり日本一にまつわる番組に、掛布雅之さんが出演していた。その38年前のペナントレース、巨人戦での伝説的なバックスクリーン3連発にからめ、ミスター・タイガースの人物像に迫ったものだ。証言者の一人として登場したのが、習志野高時代の監督だった石井好博さんだ。

 1967年夏、習志野のエースとして全国制覇。8年後の75年夏、今度は母校を率いて優勝した。優勝投手が別のチームの監督として優勝したり、優勝の瞬間マウンドにいなかった投手が母校を率いて優勝した例はあるが、正真正銘の優勝投手&母校の監督での優勝は、石井さんたった一人だ。その石井さんが11月末、世を去った。74歳だった。

「初戦の相手が堀越(東京)。開幕戦で後攻めを引いたので、大会の第1球を私が投げるわけ。だけど投球練習のときから高め高めにボールが抜け、ストライクが入らない。あれ、どうしたんだろう……と思いながら、始球式をボーッと見ていたんだよ。それがよかったんだね、緊張がほぐれたのか、いざ試合が始まったら、ストライクが入ってくれた。いま思うと、緊張ももちろんあったけど、甲子園のマウンドというのは視界が広く見えるんだよ。だから、ふだんの感覚と誤差が出てくる。そこで集中して、視野を狭くするとストライクが入る。そのあたりは、その後に出場したときのピッチャーにアドバイスしたね」

 かつて石井さんに語ってもらった、67年夏の記憶だ。この夏の習志野は、回想にあるように開幕戦からの登場。決勝は最後の打者を三振に打ち取っているから、大会第1球を投げたのが石井さんなら、最後の1球を投げたのも石井さん、ということになる。その、開幕戦。習志野は、練習試合では分が悪かった堀越との試合を3対1で制すると仙台商(宮城)、富山商に大勝し、準決勝で中京(現中京大中京・愛知)、決勝では広陵(広島)を撃破。石井さんは5試合42回3分の1を投げ失点5、エースとして千葉県に初優勝をもたらしている。

「当時は"シュウシノ"と呼ばれて……」

 習志野の創立は、57年。62年夏には甲子園に初出場しているが、石井さんによると「あの当時、全国的にはまだ無名で、"シュウシノ"と呼ばれていたくらい」だった。石井さんの入学は65年だが、当時千葉の高校球界は銚子商の時代になりつつあった。さらにもともと、千倉町(現南房総市)の出身。野球の強い高校に進みたければ、地域的には、銚子商を志してもおかしくない。

「千倉中時代、南房総では無敗だった。それが県大会の2回戦で、銚子三中に負けたんです。9回までリードしていたのに、エラーもからんでね。その大会は、結局銚子三中が優勝するんだけど、どうにも納得がいかなくて……(笑)。その銚子三中から、だれそれが銚子商に行く、アイツもそうらしいと聞くと、それなら自分は銚子勢を倒したい……と習志野に進んだんだ。習志野はすでに甲子園を経験していたから、なんとか銚子商と勝負になるかもしれないし、自分も親戚が習志野にいたり、中学の恩師が教育実習をしていたりという縁もあったしね」

 だが、いざ入学してみると、「とんでもないところに入っちゃったな」という思いだった。2学年上には谷沢健一(元中日)、斎藤喜(元阪急)と、のちにプロ入りする逸材がいて、たまに打撃投手をすれば、谷沢の鋭いライナーが繰り返し体を直撃する。打球が速すぎて、よけきれないのだ。練習の厳しさはいうまでもなく、当時は照明がなかったから、日が落ちたら走り、走り、また走るだけだった。ただ、当時の越川道弘部長が「まだまだ細かったけど、とにかくよく走っていた」と証言するように、鍛錬が石井さんを鍛えていく。

「阪急にドラフトされた斎藤さんが、ランニングに行くときに"おい、行くぞ"と、いつも私を連れていく。1年と3年で体力が違うから、ケツにくっついていくだけで必死ですよ。でも、毎日10キロくらいそれをやっているうちに自然に足腰ができて、2年の春先になると、見違えるようなボールが行くんだよね。周りもびっくりするほどで、なるほど、走るとはこういうもんか、と実感したね。それで春から10番をつけて試合で投げ始めたんだから、斎藤さんには感謝、感謝だね」

 石井さんが2年だったその66年夏、習志野は千葉の代表決定戦で千葉工商(現敬愛学園)に敗れたものの県ベスト4、そして秋は千葉を制して関東大会に出場と、徐々に力をつけていく。そして67年夏には、東関東大会(1県1代表が定着する以前で、茨城と代表を争った)で取手二、竜ケ崎一の茨城勢を破り、2回目の甲子園に出場するわけだ。

 大いに苦しんだのが、市船橋との千葉大会3回戦だ。なにかのイベントと重なったのか道路が大渋滞し、チームの乗り込んだバスがまるで進まない。なんとか球場に到着したときには、相手チームはすでにシートノックを終えていた。石井さんはアップもそこそこに投球練習し、試合ではかろうじてスミ1を守り切り1対0。もし遅刻していたら没収試合だから、「あれで負けていたらと思うと、ゾッとはする」と石井さんは苦笑いしていたものだ。もしこのとき、習志野が試合開始に間に合っていなかったら、あるいは敗れていたら——その後の千葉の高校野球史はまた、違っていたかもしれない。

 ただ、この年の習志野の力は図抜けていた。石井さんはそもそもストレートが速いうえ、当時からフォークを覚え、振りかぶる前にグラブの中で自在に握りを変えて投げ分けていた。3年になるとシュートも習得。木製バットの時代だから、シュートの威力は絶大だ。さらに、旧制千葉中時代に甲子園出場歴があり、千葉鉄道管理局でプレーした岩井一氏が、コーチとして投球術を手ほどきする。

「ピッチャーとバッターは心理戦。1球目に変化球を投げるとほとんど振らない」「代打は絶対に初球は真っ直ぐを狙うので、カーブで稼ぎ、次にファウルを打たせればもう追い込める」。上のレベルでは常識の駆け引きでも、純情な高校生にとっては目からウロコで、考え方が楽になった。そうして投球術に磨きをかけた石井さんだけではなく、習志野にはさらに山口生男、田中正美の二遊間、中堅の池田和雄ら、2年時から試合に出ている選手も多くいて、経験も豊富である。練習試合では、春の関東大会を制した桐生(群馬)に連勝するなど、全国でも通用するだけの力があった。

 話は先走るが、甲子園の決勝。広陵の最後の打者に対しても石井さんは、「硬くなっているのがわかったので」、あえて高めのボールを振らせて三振と、憎いまでの冷静さを保っていたのである。(つづく)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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