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久々の甲子園なるか? の帝京。OBの杉谷拳士は、在学中から愛されキャラでした

楊順行スポーツライター
帝京高3年時。ずっと右打ちだったが、このころから両打ちに挑戦した(撮影/筆者)

 いま開催中の秋季高校野球・東京都大会は、ベスト4が決定し、12、13日が準決勝、決勝の予定だ。来春の第95回選抜高校野球大会は、記念大会で出場枠が増え、関東・東京も例年から+1校の7枠。そのうち5枠はすでに終わっている関東地区大会のベスト4、東京の優勝校が占めるとして、残り2枠は関東のベスト8、そして東京の準優勝校を比較しての選考になるだろう。東京から2校出場の可能性も十分あるわけで、まずは12日の準決勝に勝つことが求められる。

 ベスト4のうち、もっとも甲子園から遠ざかるのが春夏3回の全国優勝がある名門・帝京だ。夏の甲子園は、前田三夫前監督時代の2011年、センバツは10年が最後の出場だから、もし二松学舎大付との準決勝を制すれば、13年ぶりのセンバツ出場がかなり見えてくる。

 帝京といえば……08年のドラフト6位で日本ハムに入団したOBの杉谷拳士が引退を表明した。

 初めて話したのは、06年夏の甲子園。試合後の取材時間になにげなく雑談を始めたら、もう止まらない。

「日本一のショートになりたいんです」

「大泉西中時代、陸上部の助っ人で都大会の100メートルで3位に入りました」

「プロ野球選手になって、親父(満さん。ボクシングの元日本フェザー級の王者)にジムを建ててあげたい」

 あげくは小声で、

「○○さん、足が遅すぎですよ。おかげで、打率が下がっちゃったじゃないですか」(自身が試みたバントで一塁走者の○○先輩が二封され、杉谷には凡退が記録されていたんです)

 気がつくと、杉谷一人を相手にしているうちに所定の取材時間が過ぎていた。

 曰く「話すことが趣味」。宿舎で同部屋だった同じ1年生の高島祥平(08年ドラフトで中日4位指名)が「うるさくて眠れない」とぼやいたほどで、とにかくよく口が動く。ナミの1年生なら、もじもじして「はい、いいえ」と答えるのがふつうだ。ところが杉谷は、見知らぬ報道陣に囲まれても堂々としたもの。そのクソ度胸も、前田監督が「森本稀哲(元日本ハムなど)以来」の1年生ショートに抜擢した理由だ。

歴史的名勝負でたった1球の負け投手

「父は、“やるからには、なんでも一番になれ”という教えでした」。だから、「目ざすのは日本一のショート」というわけだ。この夏の帝京は、準々決勝の智弁和歌山戦、9回に8点をあげてド派手な逆転を演じながら、その裏に5点を奪われサヨナラ負け、という歴史的なゲームを演じている。表に逆転打を放ったのも杉谷なら、裏のピンチにリリーフ登板して初球をぶつけ、たった1球で負け投手となったのも杉谷だ。それ以降も2年春夏と甲子園に出場し、2年のセンバツではベスト4に入っている。

 満さんと、母・真寿美さんの次男。07年のセンバツで、広陵・野村祐輔(現広島)から満塁弾を放った兄・翔貴さんは、東農大生産学部(現東農大オホーツク)でも野球を続けた。

 08年のドラフトで指名されたあと、杉谷にじっくりと話を聞いたことがある。体を動かすのが好きで、大泉第三小2年まではサッカー。ときには、満さんが当時トレーナーを務めていた白井・具志堅スポーツジムで、ボクシングのまねごともした。

「父は、ボクシングをやらせたかったと思いますよ。ただ、母が“どちらかに集中しなさい”というのでサッカー。フォワードで、なんかしら点は取っていました。もしサッカーを続けていたら、いまごろU-18の代表くらいの自信はありますね。父は“もしボクシングをさせれば、亀田に勝たせるくらいのことはできた”って(笑)」

 だが、野球を始めた兄についていき、はまった。「将来、これを職業にできたらいいな」。とにかくおもしろい。キャッチャーやショートを守り、中学では東練馬シニアへ。社会人野球のTDKでプレー経験のある菅井實人監督に、みっちり野球を仕込まれた。18人いた同期が半減するくらい練習はつらくても、「プロになりたい、将来は野球で食べていきたい」という意志は強くなるばかり。で、帝京に進み、1年からレギュラーになるわけだ。

 帝京ではピッチャーに高島らがいて、ショートを志願。当時はヤクルトのファンで、「自分が卒業するころには宮本慎也さんも下り坂」という計算までしていたというから、プロ志向はホンモノだった。

 そして08年10月30日、日本ハムが6位で指名すると、監督室でパソコンの画面を見つめていた杉谷は、思わず「よっしゃ〜!」と叫んだという。

「当日、母親は大騒ぎです。あちこちから電話がかかってきたと思ったら、“出かけるから食事は勝手にしなさい”(笑)。でも父はさすがですね、いうことが違いました。“いまはスタートラインに立っただけだ。これからが勝負で、お前は一番下からのスタートになる。そこからはい上がれ。やるからには一番になれ”って」

 そのプロ野球の世界で14年。現役としての出場は777試合となんともゲンがよく、19年には史上19人目の左右両打席本塁打を達成しているが、一番になったとはいいがたい。だが、ウグイス嬢にまでいじられる愛されキャラとしての存在感は際立っていた。記憶に残る野球人。お疲れ様でした。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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