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[センバツ]浦和学院に受け継がれる上尾のDNA

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

「寒かったので、開会式のあと試合まで、選手といっしょに大声を出していたら緊張もほぐれました」

 開幕戦で大分舞鶴に4対0と快勝した浦和学院(埼玉)・森大監督は、そう切り出した。3回まで大分舞鶴・奥本翼をとらえきれなかったが、4回には鍋倉和弘の三塁打で1点を先取すると、続く高山維月がセンターへ2ラン。投げては宮城誇南が2安打13三振の完封だ。

「(先制打の鍋倉は)練習試合で不調。昨晩の10時すぎに"動画を見てください"とラインを送ってきたんです。"大丈夫だよ"と返しました。また試合前から、バックスクリーンに打てと選手には言っていたんです」

 というから、森監督の狙い通りの展開だったかもしれない。甲子園初陣。森士前監督の長男で、2008年夏には甲子園のマウンドも経験している。

前監督の父から受け継ぎ、あえて新生浦学へ

 前監督で思い出すのは、悲願の初優勝を達成した13年のセンバツだ。済美(愛媛)との決勝を前に、森士監督は感慨深げにこう話したものだ。

「指導者として尊敬するのは、東では恩師である故・野本喜一郎先生(元上尾、浦和学院監督)と、西では上甲(正典)監督です」

 その数年前から、センバツに出場しないときには春先に遠征し、済美と練習試合を組み、夜は上甲監督との野球談義に花を咲かせたのだという。吸収するものは多かった。野球への情熱、選手への愛情……。チームを掌握するヒントも、そこでつかんだ。

 その済美との決勝で浦和学院は、安楽智大(現楽天)を打ち崩し、埼玉県勢としては68年の大宮工以来、2度目の優勝を果たすことになる。その上甲はすでに亡く、野本も、まったくの無名だった浦和学院が初めて夏の甲子園に出場した86年、開会式当日にこの世を去っている。森前監督は、野本が上尾の監督を務めていた時代の教え子だ。

「自分は、選手としては失敗作。(東洋)大学時代、将来選手を続けるか、指導者になるか野本先生に相談したところ、"これからの時代の指導者は教員じゃなきゃダメだ"と言われたことを覚えています」

 野本喜一郎は1922年、現在の埼玉県加須市に生まれ、旧制不動岡中では3年時から下手投げの投手として活躍したが、甲子園出場はない。卒業後は台北高商を経て社会人・コロムビアでプレーし、50年に結成された西日本パイレーツ(翌年西鉄と合併して西鉄ライオンズ)に参加。近鉄パールスに移籍した53年に引退するまで、4年のプロ生活で18勝を挙げた。その後は東洋大の監督を経て、58年に創立した学校事務組合共立上尾商の監督に招へいされる。

 その上尾商は60年、埼玉県に移管して県立上尾高となり、63年には山崎裕之(のちロッテなど)を擁してセンバツに初出場。このときは初戦敗退したが、夏は初出場の74年に初勝利し、その名を全国に知らしめたのが翌75年夏だ。小倉南(福岡)に延長10回、5対4でサヨナラ勝ちすると、土佐(高知)との3回戦も4対3。準々決勝では、東海大相模(神奈川)にも1点差で競り勝ち、ベスト4に進出した。

 そのときの相模は、原辰徳(現巨人監督)がいてこの年のセンバツに準優勝したビッグネーム。無名の県立校が、その大物を食ったのである。さらに79年には、牛島和彦(のちロッテなど)・香川伸行(のち南海)のスーパー球児が話題だった浪商(現大体大浪商)と、延長11回で敗れたものの名勝負。84年3月に野本が退くまで、上尾は春夏6回の甲子園で6勝を記録した。

 森士の回想によると野本は、元プロ選手でありながら細かい技術指導はほとんどしなかった。

「たとえばだれかが凡打すると、監督がベンチで"ああいうときはこうだろう"。それを聞いていた周りの選手が、あとで本人に伝えるんです。ふだんはなにも言わないから、ひとつひとつの言葉が貴重でした」

 昭和まっただ中の時代、さぞやスパルタか……と思うと、練習時間は短かったし、封建的な上下関係を嫌った。余力を残したまま練習を終わらせる方針は、「たとえば、家で自発的にやる練習こそ意味があるんだ、と。ふだんは放っておかれるだけに、創意工夫する精神がはぐくまれました」(森士)。目が悪かった野本はサングラスを愛用していたが、それでも見えないところまで、選手たちのすべてを把握していた。

 野本は84年4月から、78年開校の浦和学院の監督に転じると、3年計画で強化に乗り出し、実際に86年夏の埼玉大会で優勝。体調を崩した野本に代わり和田昭二が指揮を執った甲子園でも、いきなりベスト4に進出する。2年生の鈴木健(元西武など)が四番を打っていた。上尾を経て東洋大を卒業した森士が、浦学のコーチになるのは野本が逝去した翌87年のことである。チームは88〜91年と甲子園出場を逃し、91年8月に森士監督となると、翌92年のセンバツに初出場し、いきなりベスト4入り。森士はそこから数えて春夏22回の甲子園に出場し、通算28勝。埼玉の高校を率いた監督としてはトップの数字だ。

公立天国の埼玉に風穴を開けて

 埼玉は、公立の天下が長く続いた地だ。84年夏まで、春10回、夏26回の甲子園出場は、すべて公立。その一大勢力が、上尾だった。だが、野本の移籍がきっかけだったように、私学が壁を破っていく。85年春の秀明、夏の立教、野本が土台を築いた86年夏の浦和学院、さらに93年夏に準優勝した春日部共栄、08年春準優勝の聖望学園、17年夏優勝の花咲徳栄……いまでは私学が全盛だ。

 初出場当時のユニフォームに戻し、「新生浦学を見せよう」を合言葉に臨んだ今センバツ。森大監督は言う。

「小さいころから見ていたユニフォームでの甲子園。当時は強打の浦学というイメージでしたし、投手を中心とした守りからリズムをつくる、という伝統もあった。そのカラーを随所に見せてくれたと思います」

 前夜は、父である前監督から「恐れるな。新生浦学だ」と電話があったとか。ホームランを打った高山からもらったウイニングボール。初出場時のユニフォームを着た、その手にあった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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