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私的興味の夏の甲子園!(5) 沖縄尚学が県勢区切りの100勝目、敗れた阿南光は残塁ゼロの珍記録

楊順行スポーツライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

 それにしても、沖縄尚学打線の振りはシャープだった。七番の知念新以外は全員の13安打。投げては當山渚が二塁を踏ませない2安打12三振の完封で、終わってみれば8対0の完勝だ。敗れた阿南光(徳島)の、中山寿人監督は言う。

「(沖縄尚学打線は)振りが鋭いので、ストレートをファウルしたあとのツーシームやカットという変化球が、ちょうどいいタイミングになるんですね」

 と脱帽だ。沖縄勢にとってこの日の勝利は、春夏合わせてちょうど100勝目。選手として1999年センバツで、監督として2008年センバツで優勝している比嘉公也監督は「沖縄大会が終わって1カ月実戦から遠ざかり、バタバタするかなと思いましたが初回、四、五番で先制できたことでなんとか流れがつかめたと思います」

 そう。先制は鮮やかだった。2死走者なしからの四球をきっかけに、知念大河、長浜諒の連続二塁打での2点だ。

 ただ……その後は4回まで計7安打、さらに四死球も3ありながら、残塁が7。見ているほうとしては「え? あれだけランナーが出ているのに、まだそれだけしか取っていないの」という3得点にとどまったのは、「コロナ禍で、練習試合どころか練習にも制約があった」(比嘉監督)せいの拙攻かもしれない。

 もっとも最終的には、13安打で8得点。残塁は11におさまったから、当初効率の悪かった攻撃もなんとか帳尻が合ったように見える。

 残塁ねぇ……と記録を見ていて、あれ? と気がついた。敗れた阿南光は2回のヒットで出た走者がバント失敗のゲッツー、4回は盗塁死、さらに無四球で打者数はちょうど27。つまり、残塁ゼロなのだ。これは大会11回目の珍記録だそうだ。

残塁ゼロで逆転勝ちし、優勝したのは……

 残塁ゼロというのは、打線が不活発な例がほとんどである。打者数27で全員がアウトの完全試合を考えれば一番わかりやすい。1933年夏、大会史上初めて残塁ゼロだった善隣商(朝鮮)は、中京商(現中京大中京・愛知)・吉田正男にノーヒット・ノーランを食らっている。そもそも出塁が少ないから残塁も少ないのであって、残塁ゼロならばほぼ敗色濃厚だ。前回の残塁ゼロは2017年の横浜(神奈川)。4対6と秀岳館(熊本)に敗れたのだが、このときはたまたま増田珠(現ソフトバンク)が3ランを放ったから、横浜に4点が入っている。残塁ゼロならばふつうは完封負けか、せいぜい1点だろう。

 それでも、残塁ゼロでも虎の子の1点で勝った例もある。84年夏、9回までノーヒット・ノーランに抑えられていた法政一(現法政・西東京)は、延長10回にサヨナラホームランで決着をつけた(1対0境・鳥取)。このときの法政一は、ホームランのほかには四球の走者が一人出ただけで、それも盗塁死していた。

 そして、残塁ゼロでも大量7点を奪って勝ったのが、2002年夏に優勝した明徳義塾(高知)だ。

 常総学院(茨城)との3回戦。明徳は2回、2点二塁打を放った泉元竜二が、三塁を欲張ってアウト。同じ回、2死からヒットで出た池田直也が盗塁死。6回にも、2死からヒットで出た筧裕次郎(元オリックス)が盗塁死。4対6と2点を追う8回裏には、敵失を皮切りに沖田浩之が同点2ラン、続く森岡良介(元ヤクルトほか)が逆転ソロアーチ……。

 結局7対6で明徳が逆転勝ちしたこの試合、打撃成績の内訳は、8回打者31人のうち凡退が21+走塁死1+盗塁死2+7得点。つまり残塁ゼロで、残塁ゼロでの勝利は、先の法政一とこの明徳の2例だけだ。それにしても、7得点で残塁ゼロの勝利というのは、今後もなかなか出ないのではないか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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