センバツ回顧 「長い間 待たせてごめんね」……1999年は沖縄尚学が県勢初優勝
沖縄特有、指笛の応援が浜風に乗っている。1999年4月3日、第71回選抜高校野球大会準決勝。優勝候補のPL学園(大阪)が相手なのに、沖縄尚学の主将・比嘉寿光(元広島)は楽しくてしかたなかった。そもそも前日見たテレビで、PLのナインが「明日は勝って当然」のような表情だったのが気にくわない。先発が、準々決勝で平安(現龍谷大平安・京都)を完封したエース・植山幸亮ではなく、西野新太郎というのもカチンときた。
その比嘉寿、初回の先制タイムリーでやや溜飲を下げると、エース・比嘉公也の調子もいい。浜田(島根)との2回戦でベースカバーのさい、右足首を軽くねんざしたが、打者の手元で微妙に曲がるストレートに、PL打線が手を焼いている。4回2死走者なしから、2本の二塁打で1点返された破壊力や、田中一徳(元横浜)の足には度肝を抜かれたが、胸を借りるつもりが7回で5対2なら上出来だ。
ところが、7回裏の守りからにわかに緊迫した。2死走者なしから、なんでもないショートゴロを比嘉寿が一塁に高投してしまうのだ。お尻のポケットに簡易カイロを入れ、つねに指先をあたためていたのに、雑にさばきすぎたのか。前年夏、食い入るように見た横浜(南神奈川)とPLの延長17回も、2死走者なしからPLのショートが悪送球したのが決勝2ランにつながったんじゃなかったか。
ただ負けはしても、あの試合のPLは延長に入ってから横浜に2回勝ち越されたが、そのたびに驚異的な粘りで追いついている。まるで、目に見えない力があるように、だ。そしてPLは、案の定比嘉寿のミスをきっかけに、四球に2安打をからめて3点。テレビでしか知らなかったPLの圧力に、比嘉寿の背すじがふるえた。
県勢36年ぶり2度目のPLとの対戦
沖縄尚学は、1回戦で比叡山(滋賀)の好投手・村西哲幸(元横浜)からスクイズでもぎ取った1点を守りきると、ことごとく接戦を勝ち抜いてきた。2回戦は浜田に5対3。準々決勝では、市川(山梨)に4対2。同点まではあるが、これまで一度も相手にリードを許さず、つねに先手先手の試合ぶりだ。一方のPLには田中一、田中雅彦(元ヤクルトほか)など、前年夏に横浜との名勝負を経験した選手が残っている。それが3季連続の対戦となった横浜に6対5でリベンジすると、優勝候補の一番手として、ゆうゆうと4強に進出してきた。だが沖縄尚学は、そのPLに同点に追いつかれはしたものの、まだリードは許していない。
9回裏の守り。2死三塁から、比嘉寿の前にゴロが飛んできた。荒れたグラウンドで、直前で高くバウンドした。やばい、と思ったが体が反応し、頭上でキャッチ。今度はていねいに一塁に投げてピンチを脱した。試合は5対5のまま、延長に突入する。11回に1点を取り合い、12回の沖縄尚学は2死二塁。比嘉公の打球は、レフト左前方へふらふらと上がる。打った比嘉公が「あこがれ」というレフトの田中一は、一か八か、ダイビングキャッチを試みた。だが……ヒット。尚学に、貴重な1点が入った。一番・荷川取秀明も続いて、決定的な2点目。これでいけるぞ! 比嘉寿が勝利を確信したのはこのときだ。
横綱・PLという大きな難関を突破した沖縄尚学は、翌日も水戸商を粉砕して優勝を飾ることになる。
沖縄県勢が初めて甲子園に登場したのは、1958年夏の首里が初めてだった。その首里は、選抜初出場だった63年、PL学園の戸田善紀(元中日ほか)に、いまも大会記録の21三振を喫して完封負けしている。沖縄勢にとっては、それ以来のPLとの対戦で借りを返したわけだ。そして、初めての夏からは41年。県勢として初優勝を成し遂げた。
「そんな重い優勝旗を、私なんかが持って帰っていいのかなというのが正直な気持ちです」
恩師・栽弘義さえ果たしていない栄光に、金城孝夫監督は声をふるわせたものだ。長い間 待たせてごめんね……この大会の行進曲・Kiroro(できすぎたことに、沖縄出身)のメロディーに乗って、ナインは誇らしげに場内を1周する。そう、初出場から41年。確かに「長い間」だった。