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センバツ回顧 「長い間 待たせてごめんね」……1999年は沖縄尚学が県勢初優勝

楊順行スポーツライター
沖縄尚学は2008年にも、東浜巨(右)をエースに優勝。監督は比嘉公也だった(写真:岡沢克郎/アフロ)

 沖縄特有、指笛の応援が浜風に乗っている。1999年4月3日、第71回選抜高校野球大会準決勝。優勝候補のPL学園(大阪)が相手なのに、沖縄尚学の主将・比嘉寿光(元広島)は楽しくてしかたなかった。そもそも前日見たテレビで、PLのナインが「明日は勝って当然」のような表情だったのが気にくわない。先発が、準々決勝で平安(現龍谷大平安・京都)を完封したエース・植山幸亮ではなく、西野新太郎というのもカチンときた。

 その比嘉寿、初回の先制タイムリーでやや溜飲を下げると、エース・比嘉公也の調子もいい。浜田(島根)との2回戦でベースカバーのさい、右足首を軽くねんざしたが、打者の手元で微妙に曲がるストレートに、PL打線が手を焼いている。4回2死走者なしから、2本の二塁打で1点返された破壊力や、田中一徳(元横浜)の足には度肝を抜かれたが、胸を借りるつもりが7回で5対2なら上出来だ。

 ところが、7回裏の守りからにわかに緊迫した。2死走者なしから、なんでもないショートゴロを比嘉寿が一塁に高投してしまうのだ。お尻のポケットに簡易カイロを入れ、つねに指先をあたためていたのに、雑にさばきすぎたのか。前年夏、食い入るように見た横浜(南神奈川)とPLの延長17回も、2死走者なしからPLのショートが悪送球したのが決勝2ランにつながったんじゃなかったか。

 ただ負けはしても、あの試合のPLは延長に入ってから横浜に2回勝ち越されたが、そのたびに驚異的な粘りで追いついている。まるで、目に見えない力があるように、だ。そしてPLは、案の定比嘉寿のミスをきっかけに、四球に2安打をからめて3点。テレビでしか知らなかったPLの圧力に、比嘉寿の背すじがふるえた。

県勢36年ぶり2度目のPLとの対戦

 沖縄尚学は、1回戦で比叡山(滋賀)の好投手・村西哲幸(元横浜)からスクイズでもぎ取った1点を守りきると、ことごとく接戦を勝ち抜いてきた。2回戦は浜田に5対3。準々決勝では、市川(山梨)に4対2。同点まではあるが、これまで一度も相手にリードを許さず、つねに先手先手の試合ぶりだ。一方のPLには田中一、田中雅彦(元ヤクルトほか)など、前年夏に横浜との名勝負を経験した選手が残っている。それが3季連続の対戦となった横浜に6対5でリベンジすると、優勝候補の一番手として、ゆうゆうと4強に進出してきた。だが沖縄尚学は、そのPLに同点に追いつかれはしたものの、まだリードは許していない。

 9回裏の守り。2死三塁から、比嘉寿の前にゴロが飛んできた。荒れたグラウンドで、直前で高くバウンドした。やばい、と思ったが体が反応し、頭上でキャッチ。今度はていねいに一塁に投げてピンチを脱した。試合は5対5のまま、延長に突入する。11回に1点を取り合い、12回の沖縄尚学は2死二塁。比嘉公の打球は、レフト左前方へふらふらと上がる。打った比嘉公が「あこがれ」というレフトの田中一は、一か八か、ダイビングキャッチを試みた。だが……ヒット。尚学に、貴重な1点が入った。一番・荷川取秀明も続いて、決定的な2点目。これでいけるぞ! 比嘉寿が勝利を確信したのはこのときだ。

 横綱・PLという大きな難関を突破した沖縄尚学は、翌日も水戸商を粉砕して優勝を飾ることになる。

 沖縄県勢が初めて甲子園に登場したのは、1958年夏の首里が初めてだった。その首里は、選抜初出場だった63年、PL学園の戸田善紀(元中日ほか)に、いまも大会記録の21三振を喫して完封負けしている。沖縄勢にとっては、それ以来のPLとの対戦で借りを返したわけだ。そして、初めての夏からは41年。県勢として初優勝を成し遂げた。

「そんな重い優勝旗を、私なんかが持って帰っていいのかなというのが正直な気持ちです」

 恩師・栽弘義さえ果たしていない栄光に、金城孝夫監督は声をふるわせたものだ。長い間 待たせてごめんね……この大会の行進曲・Kiroro(できすぎたことに、沖縄出身)のメロディーに乗って、ナインは誇らしげに場内を1周する。そう、初出場から41年。確かに「長い間」だった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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