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ヴィッセル神戸の創世記 大震災のその日から、歴史が始まった……その2

楊順行スポーツライター
胸のエンブレムは、創設時ユニフォームの名残か(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

 ヴィッセル神戸として初めての練習をスタートするはずだった、1995年1月17日。あの阪神淡路大震災に見舞われ、チームは船出すらできなかった。JFLからJリーグ昇格への航路が開けているはずだったのに、だ。2月、なんとか倉敷での練習をスタートすると、新しい外国人選手獲得のために渡欧していたスチュワート・バクスター監督からは、ファクスで練習の指示が届いた。監督がようやく来日したのは、3月1日。J1のサンフレッチェ広島でさえ、バクスターの組織戦術が浸透するにはそれなりの時間がかかっている。さあ、ここからエンジンをかけていこう。

 だが……これも、まさにその3月1日だ。

「ダイエーが撤退」

「ヴィッセル神戸、ダブルショック」

 という衝撃的な活字が新聞紙上をにぎわした。ヴィッセルの運営会社・神戸オレンジサッカークラブの資本金10億円のうち、半分の5億円を出資している最大株主のダイエーが、チーム運営から身を引くというのだ。もともと、中内功オーナー率いるダイエーグループは、経営難が噂されていた。そこへもってきて、震災の被害総額がグループで約5000億円にも達し、経営の見直しを図らざるを得ない。2月27日には、Jリーグの川淵三郎チェアマンに撤退を申し入れていた。

 ただ……サッカーという文化を育てていく、というJリーグの理念に賛同しての参入である。あまりにもドライな撤退に、取材仲間とこんなふうにこぼした。

「ダイエーにとって、5億円というのは蚊に刺されたようなものですよ。今年、プロ野球のダイエーが連れてきた外国人選手のミッチェル、年俸が4億円ですからね」

野球の外国人選手には4億円

 わが意を得たり、とヒザを叩いたのが、当時の安達貞至ゼネラルマネージャーだ。ヤンマーで現役を終えた後、社業に専念。94年11月には、地元・神戸にできたプロチーム・ヴィッセルの強化部長に就任した。そこからは、チーム強化からスポンサー探しまでの運営にまつわるすべて、そして震災後も練習場の手配など、創設間もないチームで最も多忙な日々を過ごした1人である。神戸と、グラウンドのある倉敷をマイカーで往復する日々。前年9月に買ったばかりの新車の走行距離は、3カ月弱で9000キロが加算されていた。

「撤退? よ〜しわかった、と。それならダイエー色を完全に一掃したるわ、という気になりましたね」

 安達氏に話を聞いたのは、ヴィッセルのトップチームがようやく神戸に戻った4月になってからだ。ポートアイランドのダイエーのビル内にあった事務所は、三宮駅そばに移転し、ダイエーカラーのオレンジを用いていたユニフォームも、メーカーに頼み込んで急きょ作り替えたという。次のスポンサーが見つかるまで、オレンジサッカークラブという会社名だけはしゃあないですけどね……と豪快に笑った安達氏が新スポンサー獲得に奔走し、運営会社名がヴィッセル神戸となるのは5月31日のことである。

 ダイエー色の一掃はチームとしての意地だが、もちろん、撤退によるダメージは大きかった。ただでさえ、震災の影響で移籍予定の選手は二の足を踏んでおり、そこに加えてスポンサー撤退とくれば、先行きの不透明さから補強は思うように進まない。最終的には、のちにミスター神戸といわれる永島昭浩が清水エスパルスから移ってきたものの、補強に関しては65点、と安達氏も認めていた。

「ただ、寄せ集めのチームで一番大切なのは、チームワーク。倉敷の2カ月間は2人相部屋の合宿で、同じ釜の飯を食い、一緒に風呂に入り、結束は強くなったと思いますよ。うれしかったのは、川崎製鉄出身の選手たちが、"いつになったら神戸に戻れるんですか"とゆうてくれたことです。もともと倉敷で暮らし、育ってきた選手たちなのに、まだひどい状態のはずの神戸に行きたい……新しいフランチャイズ、チームへの愛着ですね」

電話番号9517! 

 当時の取材で、印象的なことがある。一時的に練習していた倉敷で、選手やスタッフが寝起きしていたのは川崎製鉄の寮。スタッフルームに電話が引かれたのだが、その番号の下4桁が「9517」だった。1995年1月17日を、忘れない。ヴィッセルとして練習を始めるはずだった運命の日。復興していく神戸と、足並みをそろえて戦っていく。そういう強い意志の、象徴に思える電話番号だったのだ。

 あれから、四半世紀。1年でのJリーグ昇格が期待されたヴィッセルだが、震災の影響をもろに受けた95年の成績はさすがにふるわず、JFLで6位に甘んじた。もし昇格すれば書籍化も……と、1年間追いかけたライターとしては淡い期待を抱いたのだが、それは夢と消えた。まあ、いい。96年にJFLで準優勝したヴィッセルは、1年遅れではあるがJ1昇格を遂げたのだから。もし昇格できなければ、その時点でチーム解散……などという噂があったのも、いまでは笑い話か。

 2004年には、楽天の総帥・三木谷浩史が代表を務めるクリムゾンフットボールクラブに営業権を譲渡。徐々に人気チームとなっていくのはご存じのとおり。以上、1月17日を迎えるにあたり、多少感傷的に振り返ってみた。蛇足ながら……Jリーグに昇格する97年。チームが練習を開始したのは、1月18日だった。あの日、ではない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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